高市政権が誕生して、2025年12月臨時国会が終わりました。
今の高市政権が進める政治が、軍拡路線を突き進もうとしていることがよく分かりました。
軍拡の先にある戦争とはどんなものなのかを1945年5月29日横浜大空襲の体験でお話いたします。
空を埋め尽くした銀色の死神
あの日のことは、まるで昨日のことのように思い出せます。いえ、思い出すのではなく、ワタクシの体の奥底に、焼き付いて離れないのです。
1945年5月29日。昭和20年のあの朝は、信じられないほどの快晴でした。
まるで神様が、これから起こる地獄を見せつけるために、わざわざ空を晴れ渡らせたかのような、皮肉な青空でした。
ワタクシは当時、数えで15歳。横須賀の軍需工場で夜勤を終え、油と鉄の匂いを体中にまとったまま、保土ケ谷の自宅へと向かう電車に揺られておりました。
窓の外を流れる風景を眺めながら、「ああ、今日も何とか生き延びた」と、そんな風に思っていたのです。
午前6時26分。異例の早朝警報が鳴りました。でも、当時の私たちにとって警報なんて日常茶飯事。
「またか」と思いながらも、道具や部品の片づけをしていたら、上司から「早く帰れ」と促され、8時頃には工場を後にしました。
「サー、サー」という死の雨
電車が横浜駅へ向かう途中、黄金町あたりだったと思います。
西の空から、「ゴー」という、まるで大地を削り取るような重低音が響いてきました。
思わず外をのぞき込み、空を見上げると、そこには――ああ、なんと表現すればいいのでしょう――銀色に輝くB-29の大編隊が、まるで無数の鳥の群れのように、空という空を埋め尽くしていたのです。
その光景は、美しいとさえ思えるほど整然としていました。でも、その整然とした美しさの裏に潜む死の気配を、ワタクシは本能で感じ取りました。
次の瞬間です。
「サー、サー、サー、サー……」
夕立のような、でも夕立なんかじゃない。それは、数えきれないほどの焼夷弾が、空から降り注ぐ音でした。
地面が、空気が、世界が揺れました。
地震のような激しい揺れの中、電車は止まり、乗客たちは我先にと電車を飛び降り、散り散りに逃げ惑いました。
ワタクシも夢中で駆け出しました。
防空壕という名の絶望
駅近くの防空壕を目指しましたが、そこはすでに人、人、人。入る隙間なんて、どこにもありませんでした。
黄金町駅周辺は、避難民が殺到していたのです。
その時です。一人の年配の男性が、ワタクシに叫びました。
「こっちじゃない!山下公園の方へ逃げなさい!そちらが安全だ!」
その声を頼りに、ワタクシは必死で走りました。でも、街は刻一刻と、火の海という名の地獄へと変わっていきました。
道路は、火だるまになった何かがゴロゴロと転がってきて、それを避けながら走りました。
目の前で、焼夷弾の油を浴びた人が、悲鳴を上げて火だるまになっていきました。その人の顔は見えませんでした。
いえ、見ないようにしてしまったと思います。見てしまったら、走れなくなってしまうから。
助けようにも助けるすべがないのです。
空からは、巨大な鉄板が、まるで木の葉のように、ひらひらと舞い落ちてくるのです。
熱で歪んだ鉄板が、爆風に乗って凶器となり、逃げ惑う人々の上に降り注ぎました。
熱風が、街路を駆け抜けていきました。息を吸うたびに、髪の毛が焼ける嫌な匂いと、喉を焼く熱い煙で、咳き込みました。防空頭巾が焦げていくのがわかりました。
「ああ、これで死ぬのか」
そう思いました。
奇跡の「鉄の隙間」
どれだけ走ったのか、時間の感覚はありません。ただ、必死で、必死で、走りました。
その時、目に入ったのです。コンクリートの丈夫そうな壁が。
とっさに、その壁の陰へと身を投げ出しました。
その瞬間――轟音とともに、大きな鉄板が壁に激突し、偶然にも、ワタクシを包み込むような三角形の空間を作り出したのです。
ワタクシは、その小さな、本当に小さな空間に、体を丸めて潜り込みました。
鉄板が、熱風を防いでくれました。火の粉を防いでくれました。飛んでくる破片を防いでくれました。
どれだけそこにいたのか、覚えていません。記憶が飛んでいたんです。
ただ、爆音と、焼夷弾が落ちる音と、人々の悲鳴が、永遠に続くような気がしました。
快晴だった空は、黒い煙に覆われて、薄暗くなっていました。
黒焦げの塊と、小さな手
やがて、爆音が遠のきました。
恐る恐る外に出たワタクシの目に飛び込んできたのは――言葉を失う光景でした。
道という道、街という街に、黒焦げになった人の塊が、いくつも、いくつも、ゴロゴロと転がっていたのです。
誰が男で、誰が女なのか。大人なのか、子供なのか。それさえも、もう分からない。ただの「塊」でした。人間が、人間でなくなっていました。
焼けた瓦礫をまたぎ、黒焦げの塊をまたぎ、ワタクシは無我夢中で横浜駅の方へ向かいました。
心の中で合掌をしながら黒焦げの塊をまたいで走ったのです。
どれだけ走ったかわかりません。
どこも焼け野原になっていました。横浜駅前の広場まで来るとそこも悲惨な状態です。
その時です。
小さな、本当に小さな黒い塊が、手を広げた姿で横たわっていたのです。
「お人形さん……?」
一瞬、そう思いました。でも、違いました。それは、赤ちゃんでした。
まだ生まれて間もないであろう、小さな、小さな命。
その子は、何も悪いことなんてしていない。
ただ、この世に生まれてきただけなのに。
悲しみと、恐怖と、そして言いようのない罪悪感が、ワタクシの心を締め付けました。
「自分が生きているのが申し訳ない」
頭がおかしくなっていたのだと思います。
でも、足を止めるわけにはいきませんでした。
母の胸で、涙が止まらなかった
自宅は、横浜駅から山の方へ向かう小高い場所にありました。幸い、自宅は市街地ではなかったので、空襲の被害を免れていました。
玄関の戸を開けると、母が立っていました。
母の顔を見た瞬間、張り詰めていた恐怖と緊張の糸が、どっと切れました。
ワタクシは、言葉もなく、母の胸に倒れ込みました。そして、大泣きしました。声を上げて、子供のように泣きました。
母も、ワタクシを抱きしめて、一緒に泣いてくれました。
「これが戦争というものです」
あの日から80年。ワタクシは94歳になりました。でも、あの光景は、決して色褪せることがありません。
今、再び忍び寄る戦争の足音
穏やかな余生を送るはずのワタクシが、なぜ今こうして筆を執っているのか。
それは、2025年12月の臨時国会を経て、この国が急速に進めている軍拡路線に、あの戦争へと向かう道と同じ、強い危機感を覚えているからです。
ニュースを見るたびに、胸が締め付けられます。
高市政権が、アメリカに言われるがままに、軍事費をGDPの2%へ。80兆円のアメリカへの投資、60兆円の軍拡。一方、国民の暮らしはほんのちょびっと。
一体、誰のための国なのでしょうか。
ワタクシたちの暮らしを切り詰めて捻出されたお金が、たくさんの兵器の購入に充てられようとしているのです。
さらに驚くべきことに、小泉防衛大臣は「防衛と経済の好循環」と述べ、人の命を守るはずの安全保障を国の「成長産業」と位置づけているそうです。
あの地獄のような空襲で、空から降り注いできた鉄板や、街を焼き尽くした炎が、今では「経済成長の道具」として語られている。
これほど悲しいことはありません。
「抑止力」という名の幻想
政府は「抑止力を高めるため」と説明します。
でも、ワタクシは声を大にして言いたいのです。
「抑止力のために軍事費を増やすことは、戦争への道です」と。
「相手が攻めてこないように、こちらも強い武器を持とう」という考え方は、一見もっともらしく聞こえるかもしれません。
でも、考えてみてください。日本が「敵基地攻撃能力」を持てば、周りの国々は「日本が攻めてくるかもしれない」と警戒し、さらに強力な武器を持とうとするでしょう。
反対にお隣の国が軍事力が勝っている、ならば我が国もと軍拡をする。
いつまでこれを繰り返すんですか?
それは、お互いに武器を増やし続ける、終わりのない軍拡競争を招き、かえって地域の緊張を高めてしまう危険な道なのです。
それで、いったい誰が得をしているんですか?
まるで、家族の食費を削って、隣の家どうしで殺し合うための武器を買い揃えているようなものです。
家の中に武器が増えても、私たちの心は飢え、恐怖に怯えるだけではありませんか。
戦争とは、暮らしを奪うもの
戦争は、爆弾が投下される瞬間だけが地獄なのではありません。日々の暮らしそのものが、破壊されていくのです。
あの頃、ワタクシたちは、いつもお腹を空かせていました。
お米も、お味噌も、何もかもが配給制。たまに配られる鯨の肉の、ほんの小さな一切れが、どれほどの御馳走だったか。
やがてそれすらも届かなくなり、命がけで近隣の県まで食料を探しに行かねばなりませんでした。
ワタクシたちのような若い学生は、学校で勉強することも許されず、工場へ動員されました。国の為だと教えられ、毎日、兵器を作る手伝いをしていたのです。
戦争が始まった頃は、ほとんどの人が日本の勝利を信じていました。
でも、激しくなる空襲と深刻な食糧不足を前に、人々の心には「この戦争は、本当に勝てるのだろうか」という、拭いきれない不安と疑念が芽生え始めました。
空を埋め尽くすB-29に、日本の飛行機がほとんど反撃できない姿。配給される食料が、豆や代用品ばかりになっていく現実。
多くの人が、口には出せずとも、この国の行く末を案じていたのです。
憲法に刻まれた、血の滲むような誓い
日本国憲法の前文には、こう刻まれています。
「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し……」
これは、ワタクシたち焼け跡に立った世代が、失った家族や友の顔を思い浮かべながら、血の滲むような想いで立てた、未来への誓いなのです。
今、「防衛」や「経済」という耳障りの良い言葉の裏で、かつてワタクシたちが経験したのと同じ過ちが、繰り返されようとしていないでしょうか。
選ぶべきは「平和の準備」
どうか、忘れないでください。
ワタクシたちが今、選ぶべき道は「戦争の準備」ではありません。
知恵を絞り、対話を重ね、粘り強く「平和の準備」をすることです。
憲法9条を持つ国として、今こそ徹底した平和外交を行うべきではないでしょうか。
あの日、ワタクシが鉄板の隙間から見た地獄を、二度と誰にも見せてはならない。
それが、94歳まで生かされたワタクシの、最後で、最大の使命だと思っています。
未来を担う皆さまへ
この文章を読んでくださった、未来を担う若い世代の皆さまへ。
どうか、平和な社会を築いてください。
それが、戦争を知る最後の世代となったワタクシからの、心からの願いです。
ワタクシの体験は、数字やデータでは決して伝わらない、戦争というものの真実の、ほんの一端にすぎません。
でも、この一端を知ることで、皆さまの心に、何か小さな種が芽生えることを、ワタクシは信じています。
平和という花を咲かせるために。
最後の一句
鉄板の 隙間に生きて 今語る
