「西側」という言葉が崩れる音を聞いた
2026年2月28日。
ワタクシは名古屋の部屋でその報せを聞いたとき、94年間で積み上げてきた「世界の地図」が、音を立てて色褪せていくような気がしました。
米国とイスラエルが、イランへの電撃攻撃を仕掛けた。死者は1,300人を超え、最高指導者の命まで奪った。
戦後80年、ワタクシたちは「二度とあの戦争の惨禍を繰り返してはならない」と言い続け、
「国連憲章」「主権の尊重」「国際法」という言葉を、まるで人類の宝物のように磨いてきたはずでした。
ところが、その言葉をいちばん高らかに叫んできた米国が、自ら先制攻撃という形でその宝物を踏みにじった。
ワタクシの少女時代、昭和20年の夏を思い出します。正義だと信じて戦い続けた国が、ある日突然、「間違いだった」と膝を折る日があった。
今また、世界は似たような岐路に立っている、とワタクシは感じています。
日本ではあまり報道されていない、外国メディアの情報を「チームあかね」が丹念に調べてくれました。
「西側の結束」という虹が、消えた日
これまでロシアのウクライナ侵攻の際に「主権を守れ、国際法を守れ」と声を上げてきた欧州各国が、今回は静かに、しかし明確に、米国から距離を置き始めました。
スペインのサンチェス首相は「不当で危険な軍事介入だ」と断じ、ドイツのクリングバイル副首相は「これは我々の戦争ではない」と言い切った。
「日米欧」という三色の旗が、ひとつの亀裂からほつれ始めた瞬間でした。
虹というのは美しいけれど、実体はない。ワタクシはそう思いながらニュースを聞いていました。
「西側の結束」もまた、国際法という雨粒が降り止めば消えてしまう、幻の虹だったのかもしれません。
スイスの決断――200年の中立が導き出した「法の一本道」
さて、ここからがワタクシが一番、胸を打たれた話です。
1815年から200年以上、永世中立を貫いてきたスイス。
その国防相が今回の攻撃を「武力行使の禁止に抵触する、明白な国際法違反」と断じました。
ただし、です。スイスの立場は「反米」でも「親イラン」でもなかった。
イランの違反も同列に批判しながら、「法という唯一の物差し」だけを基準に置いた。
それが「親・国際法(Pro-Law)」という、ぶれることのない一本道でした。
そして3月15日、スイス政府は米軍偵察機2機の領空通過要請を、静かに拒否しました。
一方で、人道・医療目的や紛争と無関係な輸送機3機については通過を認めた。
この「峻別(しゅんべつ)」の精密さといったら!
まるで外科医が患部だけをメスで切り分けるように、「軍事」と「人道」を分けた。
この判断は、偵察機を封じられた米軍にルートの組み替えという物理的な負担を強いただけではありません。もっと大きな意味がある。
スイスは国際社会に対して「米国のこの行動は法的な正当性を欠いている」という消し去ることのできない「法の証跡」を残したのです。
中立という盾は、今や鋼の鎖として「軍事運用の自由」を縛る力を持っている。
200年の信念が、ここへきて世界史を動かす重みを持ち始めたのです。
ワタクシは、94年前に生まれた人間として、「筋を通し続けることの凄み」をこの小さな国に教えられた思いがしました。
メローニの計算――「親トランプ」のはずだった首相が見せた転換
もう一つ、見逃せない国があります。イタリアです。
メローニ首相は、欧州でも屈指の「親トランプ派」として知られた人物でした。
それが上院演説で、今回の介入を「国際法の枠外」と言い切り、参戦の意志がないことを宣言した。
特に、イラン南部の女子小学校への攻撃で160人以上の子どもが犠牲になった惨劇を、彼女は「虐殺(Strage)」という最も重い言葉で非難しました。
160人の子ども。ワタクシの戦争体験と重なって、その数字が心に刺さります。
数字というのは冷たいようで、実は命の温度を持っている。
160という数は、小学校の全校生徒がほぼ消えるということなのですから。
もちろんメローニの決断には、政治的な計算もあった。
国民の約3分の2が攻撃に反対しているという世論、そして政権の命運を左右する司法改革の国民投票を控えた綱渡り。
さらに、米国から事前の通知さえなかったという同盟軽視の事実が、彼女に「特権的な関係には限界がある」と悟らせた。
しかし、計算の上に立ちながらも、「国際法の枠外であればイタリアという国家を賭けることはできない」と言い切った冷徹さ。
これはリアリズム、つまり感情ではなく現実を直視する知性です。
「敵の行いは間違い。でも味方の暴走にもNOと言う」――その勇気と知恵が、今の日本外交に決定的に欠けているものだとワタクシには思えてなりません。
日本の沈黙――安倍原則を忘れた「漂流」
欧州が「法」と「主権」を盾に国家としての誇りを示す一方で、日本の姿はどうでしょう。
ジャーナリストの柳澤秀夫氏が「お茶を濁し、のらりくらりとかわす」と評した、その言葉がワタクシには刺さりました。

日米首脳会談を前に、トランプ大統領の顔色を伺いながら沈黙を守る。
これは、独立国家の姿ではありません。
かつて安倍晋三元首相は、「国際法上認められない行為をする国を支援することはない」という原則を掲げました。本来これは、保守外交の背骨であるはずでした。
ところが今の日本は、その「安倍原則」という背骨さえも捨て去り、思考停止した追従へと戻っています。
ワタクシは戦時中、「お国のため」という言葉に疑問を持てなかった時代を生きた。
疑問を封じ込めることが「正しい態度」とされた時代を。
その経験があるから、「沈黙することの罪」がどれほど深いか、骨身にしみてわかります。
この沈黙がどれほど高くつくか。
南シナ海や尖閣諸島で「国際法に基づく現状変更に反対する」と訴えたとき、「あなたの国は国際法違反に黙っていたではないか」と言われたら、
日本には何も返す言葉がない。
ルールを無視する同盟国にNOと言えない国が、他の国にルールの遵守を求めても、それは国際社会で笑いものになるだけです。
独立国の誇りか、無法な力への追従か――分水嶺に立つ世界
世界は今、二つの道の分かれ目に立っています。
一つは、力を持つ者がルールを決め、弱い者はそれに従うしかない「暗黒時代」への逆行。
もう一つは、国際法という人類の共通のルールを、命をかけて守り続ける道。
スイス、イタリア、スペイン、ドイツが示したのは、同盟という利害関係を超え、「文明の防波堤としての法」を選ぶ独立国の誇りでした。
高市政権に求められるのは、「トランプの機嫌を損ねることへの恐怖」を乗り越え、安倍元首相が掲げた「法に基づく支援の峻別」を断行する勇気です。
同盟関係と国際法の遵守を、矛盾させずに統合する知恵こそが、真の外交的独立の証明なのです。
筋を通した者だけが、最後に顔を上げて歩けるとおもいませんか。
それは、国際政治だろうと、人と人との関係だろうと、変わらない真実です。
✒ 最後の一句
春眠や 国際法など 夢の中
孟浩然の漢詩「春暁(しゅんぎょう)」、「春眠暁を覚えず」の本歌取り。寝ぼけた外交への痛烈な皮肉をしてみました。
