14歳の夏、終戦の年・1945年:空襲の記憶と昭和の世相史に見るあの頃

人生エッセイ

皆さま、こんにちは。93歳になりました あかね です。

いつもブログをご覧いただき、ありがとうございます。

今回は、私の人生の中でも特に鮮烈な記憶として残っている、終戦の年、1945年(昭和20年)のことをお話しします。

当時、私は14歳。多感な少女時代に、日本全体が戦争という未曽有の事態に直面していました。

疎開先での日々と空襲の記憶

横浜の下町で9人兄弟姉妹の長女として育った私ですが、激しい空襲を避けるため、家族の一部とともに静岡の山間部に疎開していました。

山々に囲まれた静かな場所でしたが、それでも戦争の影は私たちの生活に深く入り込んでいました。

夜中、眠れぬ時間に窓辺に立つと、遠く街の方角に不気味な光が見えることがありました。

パチパチと花火のようなものが空に広がる光景は、一見美しくもありましたが、それが何を意味するのか、14歳の私にも分かっていました。

上空を旋回するB29などの敵機が焼夷弾を投下している瞬間だったのです。

翌朝になると、街からの知らせが山間部まで届き、昨夜の空襲で多くの家が焼け、怪我人や亡くなった方がいるという悲しいニュースを耳にしました。

そして、その下では怪我をした人々が逃げまどい、黒焦げになった建物や、時には人の姿も…。

思い出すだけで胸が痛みます。日本中の地方都市が、同じようにことごとく空襲でやられていました。

B29の爆音が聞こえると、心臓がドキドキし、すぐに防空壕に逃げ込むのが日常でした。

防空壕の中は暗く、じめじめとして、恐怖で震える子どもたちの姿があちこちに見られました。

私は長女として、弟や妹たちを安心させようと、強がって明るく振る舞おうとしていましたが、内心は同じように怯えていたのを覚えています。

戦時下の生活の厳しさ

1945年当時、私たちの生活は極度の物資不足に喘いでいました。

食料や生活必需品の配給制度は1940年から1941年頃にかけて導入され、人々の生活は統制されていきました。

配給所の前には朝早くから長い列ができ、私も母の代わりに並ぶことがありました。

列の中には主婦や高齢者が多く、幼い子供を背負った母親の姿もよく見かけられました。配給される食料は、日に日に量が減っていったように思います。

「今日はどのくらいもらえるかしら」と期待を胸に抱きながら並んでも、実際に手に入るのはわずかな量の米や野菜、時には代用食だけということもありました。

肉や魚、砂糖といった食料品はほとんど口にすることができず、衣料品などの物資も不足していました。

綿や毛糸の代わりにスフ(ステープルファイバー)といった代用繊維が使われるようになり、着物をほどいて子どもの服を作ったりすることも珍しくありませんでした。

1945年には食料確保のための様々な取り組みが行われました。

学校でもどんぐりの採集及び食糧化に学徒や地元の人々が本格的に取り組むことになりました。

私たちも山に入ってどんぐりを拾い、それを粉にして食べられるようにする方法を教わりました。

苦くて美味しいとは言えませんでしたが、空腹を満たすためには貴重な食糧でした。

また、食糧増産を妨げる行為には厳しい処罰があり、馬鈴薯(じゃがいも)を二個盗んだだけで三年もの刑になるという話を聞いて、恐ろしく思ったものです。

それほど食料事情は逼迫していました。

戦時教育と少女の日常

学校での教育も、戦時色が濃くなっていました。

朝は「宮城遥拝」と呼ばれる、皇居に向かってお辞儀をすることから始まり、授業では国家主義的、軍国主義的な思想が強調されるようになりました。

書道の時間には、「忠誠」「滅私奉公」などの言葉を筆で書かされ、音楽の時間には軍歌を歌うことが多くなりました。

体育の授業では軍事訓練や体力錬成が重視され、女子生徒だった私たちも、姿勢の訓練や行進の練習をさせられました。

「背筋をぴんと伸ばして、顎を引いて…」という教師の声が今でも耳に残っています。

当時は不満に思うこともありましたが、今思えば、あの頃の姿勢の訓練のおかげで、90代になった今でも背筋がしゃんとしているのかもしれません。

学校では、国のために何かできることはないかと真剣に考えていました。

戦局が厳しくなると、私たち学徒動員で工場へ勤労奉仕に行くようになりました。女学生だった私たちも、軍需工場で部品の組み立てや検品作業に従事しました。

工場では、朝から晩まで機械の音に囲まれ、ひたすら作業を続けました。

決して楽ではありませんでしたが、仲間と一緒に励むことで不思議と力が湧いてきたのを覚えています。

「これが日本の勝利につながる」と信じていたからでしょう。

今考えれば幼い考えでしたが、当時はそれが私たちの希望だったのです。

終戦と新たな時代の始まり

そして、1945年8月。8月6日には広島に、9日には長崎に原子爆弾が投下され、甚大な被害が発生しました。

ラジオや大人たちの会話から、何か恐ろしいことが起きたという情報は入ってきましたが、原爆の真の恐ろしさを理解するのはずっと後のことでした。

8月15日、天皇陛下の玉音放送が流れました。ラジオの前に集まった私たちは、静かに耳を傾けました。

雑音が多く、はっきりとは聞き取れない部分もありましたが、戦争が終わったという事実だけは理解できました。

大人たちの中には涙を流す人もいれば、ただ黙り込む人もいました。

複雑な感情が交錯する中、14歳の私は「これでもう空襲の恐怖から解放される」という安堵感と、「これからどうなるのだろう」という不安が入り混じった気持ちでした。

恐怖や悲しみだけでなく、ようやく戦争が終わったという安堵感も確かにありました。

しかし、その後も食糧難や物資不足など、厳しい日々は続きました。戦後の混乱期、長女だった私は幼い弟や妹たちのために働きづめでした。

食べるものが少ない時代でしたが、家族皆で助け合い、なんとか乗り越えてきました。

子供たちの成長が、何よりの喜びだったのです。家族のために食べ物を得るため、少しでも手に入れるために、町の残留物などを持って農村部へ物々交換に行ったことも少なくありませんでした。

戦争を経験した世代として

あれから約80年。

日本は焼け野原から立ち上がり、高度経済成長期を経て、世界有数の経済大国へと成長しました。

私も結婚し、子どもたちに恵まれ、離婚という試練も経験しながら、今ではひ孫の顔も見ることができるまでになりました。

振り返れば、私の人生は日本の現代史そのものです。

満州事変から太平洋戦争、高度経済成長、バブル崩壊、そして自然災害など、多くの困難や変化を経験してきました。

それでも、家族の絆や人々の温かさに支えられ、ここまで生きてこられたことに感謝しています。

戦争という時代の波に翻弄されながらも、懸命に生きていた14歳の私。

そして、同じように困難な時代を生き抜いた多くの人々。あの日の記憶を、これからも大切に語り継いでいきたいと思います。

若い世代の皆さんには、平和の尊さを知ってほしい。戦争の恐ろしさ、命の大切さを忘れないでほしい。

それが、あの時代を生きた者の願いです。

このブログを通して、私の人生の記録が、皆様の何かのお役に立てれば幸いです。温かい目で読んでいただけると嬉しいです。

人生エッセイ
この記事を書いた人
Akane

あかね93才。昭和初期生まれ。日本人女性。戦前戦後を生き抜く。高度成長で頑張り、子供たちは成長して、みな還暦過ぎ。最近パソコンやスマホを初めてもう楽しい。音声で文字が書けるので、パソコンやスマホといっぱいおしゃべりして、言いたいことバンバン書けます。息子や孫たちが「あかねの独り言制作実行委員会」なるものを結成してくれて、「90年の現代史を残すんだ!っと」ワイワイと手伝ってくれています。長生きするのもワルクナイ!

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