私は、昭和6年(1931年)に横浜で生まれ、9人兄弟の長女として賑やかな家庭で育ちました。
そして15歳の時、終戦を迎え、新しい憲法の誕生を目の当たりにしました。
今回は、その新憲法の中でも特に私たちの心に深く刻まれた「憲法九条」について、当時の想いと共にお話しさせていただきます。
新しい憲法に込められた決意の言葉
昭和21年(1946年)の秋、まだ焼け跡の残る街角で、私たちは新しい憲法について書かれた小さな冊子を手にしていました。
その冊子の紙質は決して良いものではありませんでしたが、そこに記された言葉は、戦争の惨禍を経験した私たちの心に、まるで温かい光のように差し込んできたのです。
新しい憲法には、これから日本がどんな国になっていくのか、新しい国の歩み方、人々の暮らしの基準が丁寧に書かれていました。
中でも、私の心に最も深く響いたのは、この憲法が「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにする」という強い決意から生まれたということでした。
そして、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という言葉に出会った時、私は思わず胸が熱くなりました。
あの恐ろしい戦争の記憶がまだ生々しく残る中で、日本という国が、もう二度と戦争をしないと世界に向かって宣言している。
その重みと美しさに、15歳の私は深く感動したのです。
憲法九条との出会い ~戦争放棄という希望の光~
憲法には「戦争の放棄」に関する特別な章が設けられていました。
それが憲法九条です。
この条文は、戦争放棄と戦力不保持を定めたもので、戦後日本の平和の基盤となるものでした。
私がこの九条の条文を初めて読んだ時の衝撃は、今でも鮮明に覚えています。
横浜での空襲体験、疎開先の静岡で見た、夜空を真っ赤に染める空襲の光景。
パチパチと花火のように見えた焼夷弾が、実は多くの人々の命を奪っていたという現実。
黒焦げになった人々の姿。
あの悲惨な光景が脳裏に蘇る中で、「もう二度と戦争はしない」と明確に宣言する憲法九条は、まさに私たち戦争体験者の切実な平和への願いの表明そのものでした。
九条の条文を読んでいると、戦時中に体験した恐怖や悲しみが、希望の光に変わっていくような感覚がありました。
あの時代、私たちは毎日のように「お国のために」「皇国のために」という言葉を唱え、戦争に勝つことが最高の価値とされていました。
私も真剣にそう思っていました。
しかし、九条は全く違うことを言っていました。
戦争をしないこと、平和を守ることが最高の価値なのだと。
世界に向けた日本の新しい姿勢
日本国憲法は、第二次世界大戦後の深い反省に立ち、個人の尊厳を最高の価値とし、平和主義を掲げた先進的な憲法でした。
憲法九条に象徴される徹底した戦争放棄と非武装の原則は、当時の世界でも類例を見ないものであり、国際社会からも「平和憲法」として高い評価を受けました。
当時、世界はまだ戦争の傷跡が深く残る時代でした。
各国が軍備を整え、力による解決を模索する中で、日本だけが「戦争はしない」と宣言したのです。
これは、まさに勇気ある決断でした。
そして、この決断は、戦争の惨禍を二度と繰り返さないという深い反省と、基本的人権の尊重や法の下の平等といった個人の尊厳を守るという新しい価値観に基づいていました。
私たちは、戦時中に個人の尊厳が踏みにじられる様子をつぶさに見てきました。
個人よりも国家が優先され、一人ひとりの命や想いが軽視される社会を経験しました。
憲法九条は、そうした過去への反省の上に立ち、個人の尊厳を最大限に尊重する新しい社会の礎となったのです。
人々の心に宿った平和への願い
憲法制定当時、街角や公民館、学校などで、人々は新しい憲法について熱心に話し合いました。
私も近所の奥様方や同世代の友人たちと、何度も憲法について語り合った記憶があります。
その中でも、平和に関する言葉に、皆が特別な希望を見出していました。
「もう戦争はしないのね」「子供たちを戦場に送らなくてもいいのね」そんな安堵の声が、あちこちから聞こえてきました。
九条は当時の人々にとって、「日本国民が平和を求めていると世界に宣言した」証でした。
それは、戦時中の軍事精神を育む教育や言論統制といった軍国主義への強い反発であると同時に、
焼け野原から立ち上がった世代が「二度と戦争をしない」と心から誓った、平和国家としての新しい姿勢を示すものでした。
私は当時、家族を支えるために必死に働いていました。
栄養失調で兄を亡くした悲しみを抱えながらも、家族みんなで助け合って生きていました。
そんな私たちにとって、憲法は単なる法律の条文ではありませんでした。
それは、個人の尊厳を守る社会的契約であり、私たちが安心して暮らせる社会を築くための約束だったのです。
平和主義という新しい道筋
憲法九条に象徴される日本の平和主義は、単なる戦争放棄にとどまりませんでした。
それは、軍事力によらない国際平和への貢献という、より積極的な側面を含んでいました。
武力による解決ではなく、外交による平和的解決を目指す。
これは、憲法前文の「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」という理念の実践そのものでした。
戦時中、私たちは「力こそ正義」という価値観の下で生きてきました。
強い者が勝ち、弱い者は従うという世界観が当たり前でした。
しかし、憲法九条は全く違う価値観を提示していました。
力ではなく、話し合いによって問題を解決する。
相手を信頼し、協力し合って平和を築いていく。
これは、戦争を経験した私たちにとって、まさに革命的な考え方でした。
また、日本は唯一の被爆国として、「核兵器のない世界」を目指す取り組みも続けてきました。
非核三原則(「作らず、持たず、持ち込ませず」)は、九条の精神を具体化した政策であり、戦争体験者である私たちの証言は、これらの平和への取り組みの原動力となってきました。
広島や長崎で起きた原爆の惨状を知った時、私は戦争の恐ろしさを改めて実感しました。
あの空襲で見た光景がさらに凄惨なものになったとしたら、どれほど多くの人々が苦しんだでしょうか。
そうした想いが、核兵器の廃絶という目標に込められているのです。
受け継がれるべき平和への誓い
終戦から80年が経った今、戦争を直接体験した人は少なくなりました。
しかし、憲法九条に込められた「二度と戦争はしない」という誓いは、決して風化させてはならないものです。
それは、戦争の惨禍を体験した私たちから、次の世代への大切な贈り物でもあります。
私は、孫やひ孫たちに、時々、戦争当時の話をします。
空襲の恐ろしさ、食糧難の辛さ、家族を失う悲しみ。
そして、憲法九条に出会った時の希望と安堵。
これらの体験を通して、平和の尊さを伝えようとしています。
戦争は、決して過去の出来事ではありません。
今この瞬間も、世界のどこかで争いが続いています。
だからこそ、日本の憲法九条が示している平和主義の精神は、現代においても重要な意味を持っているのです。
結び ~平和への希望を次世代へ~
憲法九条は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにする」という固い決意と、
戦争体験者の「二度と戦争はしない」という強い決意と願いが込められたものです。
それは、戦争による悲惨な体験を踏まえ、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して自国の安全と生存を保持しようという決意であり、
焼け野原から立ち上がった世代の「生きる希望の証」でした。
15歳だった私が、あの小さな冊子で出会った憲法九条。
その条文は、戦争の恐怖に震えていた私たちの心に、確かな希望の光を灯してくれました。
九条は、戦後日本の平和を支える重要な柱であり、揺るぎない基盤です。
今、私は93歳になりました。
この長い人生の中で、日本が戦争に巻き込まれることなく、平和を保ち続けてこられたのは、憲法九条があったからこそだと心から信じています。
戦争の記憶が薄れゆく中でも、九条に込められた平和への誓いを、次の世代、そして次の次の世代へと確実に受け継いでいくこと。
それが、戦争を経験した私たちの使命であり、責任なのです。
戦争のない平和な世界。それは、憲法九条が私たちに示してくれた、最も美しい未来への道筋なのです。