春の陽射しが窓から差し込む午後、私は古いアルバムを開きました。
そこには、15歳の私が大切に保管していた一冊の小さな冊子の写真があります。
『あたらしい憲法のはなし』
今から78年前、戦後の混乱期に私が初めて手にした憲法の解説書です。
その表紙の色はすっかり褪せていますが、当時感じた希望の輝きは、今も私の心に鮮やかに残っています。
現代では、日本国憲法が「アメリカからの押し付け憲法」だと主張する声をよく耳にします。
確かにGHQ(連合国軍総司令部)が深く関与したことは事実です。
しかし、私はその時代に居合わせた一人として、単なる「押し付け」という言葉では語り尽くせない複雑な真実があることを、皆さんにお伝えしたいのです。
私は93歳。戦争を経験し、新しい憲法が生まれる瞬間を目撃した世代です。
憲法ができたとき、私は「これからの日本は平和でよい国になっていく」と心から信じました。
今回は、その信念の根拠と、日本国憲法が「人類の英知の結晶」である理由についてお話しします。
戦後の記憶:希望の芽生え
1945年8月15日、天皇陛下の玉音放送を聞いたとき、私の心は複雑な感情で一杯でした。
敗戦の屈辱と同時に、「これでもう死ぬことはない」という安堵感もありました。
横浜での大空襲を体験し、静岡の親戚宅に疎開していた私は、夜空が真っ赤に染まる遠くの空襲を見ていました。
黒く焦げた人々の塊のような姿を目にし、食べ物もなく、明日をも知れぬ日々を過ごしていました。
そんな中での終戦でした。
翌年、新しい憲法の話が広まり始めました。
学校で配られた『あたらしい憲法のはなし』や『新しい憲法 明るい生活』といった冊子を、私は食い入るように読みました。
そこには、これから日本がどんな国になっていくのか、新しい国の歩み方、人々の暮らしの標準が書かれていました。
特に印象に残ったのは、「男女は全く平等になる」という言葉でした。
当時、女性だった私にとって、男性と同じ権利を持てるということは、まるで夢のようでした。
「家」制度が変わり、女性も教育を受け、自分の意志で職業を選び、結婚相手を決められるという内容に、胸が高鳴りました。
そして何より、「二度と戦争をしない」という宣言が、私たち戦争を経験した世代の切実な願いと重なり、涙が止まりませんでした。
その日から、私は新しい憲法を希望の象徴として心に刻みました。
「押し付け」だけではない:日本側の主体性
「押し付け憲法」という言葉をよく聞きますが、私が体験した当時の空気感はもっと複雑でした。
確かに、GHQが草案を作成し、日本政府に提示したという経緯はありました。
しかし、それを受け入れる日本側にも強い意志があったのです。
終戦から間もない頃、街にはまだ焼け跡が多く残っていましたが、少しずつ復興の気配が感じられるようになっていました。
そんな中、憲法普及会が結成され、全国的に新憲法の説明会や講演会が開かれました。
会場はいつも人で溢れ、老若男女問わず、熱心に話を聞く人々の姿がありました。
そこには「もう二度と戦争はしたくない」「新しい民主的な国にしたい」という国民の願いが充満していました。
講演者の言葉一つ一つに頷き、時に涙を流す人もいました。
憲法普及会には、芦田均(あしだ ひとし)や金森徳次郎(かなもり とくじろう)、横田喜三郎(よこた きさぶろう)といった日本の政治家や憲法学者、知識人らが役員として名を連ねていました。
彼らは単にGHQの意向を伝えるだけではなく、新しい日本の姿を自分たちの言葉で語っていました。
私の父は、職場でも新憲法についての勉強会が頻繁に行われていたと言っていました。
「これは単なる占領政策ではない。日本人自身が望んだ方向性なんだ」と父は熱く語っていたのを覚えています。
日米の協働:理想が交わる瞬間
私は、日本国憲法は「アメリカと日本の憲法学者や知識人や政治家、市民が一体となって作り上げたもの」だと思っています。
それは単なる「押し付け」という一面的な見方では捉えきれない現実です。
あとになって、新聞やラジオ放送で、憲法制定に関わった人々のインタビューを聞く機会がありました。
そこで印象的だったのは、GHQ側にも戦争の惨禍を二度と繰り返したくないと考え、真摯に民主主義や平和を希求する人々がいたことです。
また、日本側にも、戦前の軍国主義への反省から、新しい民主的な国づくりに情熱を注ぐ人々が多くいました。
戦争で家族を失った人、空襲で全てを失った人、戦地で悲惨な体験をした人—そんな人々が「もう二度と」という思いを胸に、新憲法を支持していました。
私の通っていた学校の先生も、「この憲法は確かにGHQの関与があるけれど、日本人が長年求めてきた理想も盛り込まれている」と語っていました。
実際、大正デモクラシーの時代から、日本にも民主主義や基本的人権を求める動きはあったのです。
新憲法が公布された1946年11月3日、私たちの町では祝賀行事が開かれました。
人々の顔には不安と希望が入り混じっていましたが、「これから日本は良くなる」という期待が町全体を包んでいました。
その日、私は友人と「新しい日本の始まりだね」と語り合ったことを今でも鮮明に覚えています。
人類の英知の結晶:普遍的価値との出会い
私が日本国憲法を「人類の英知の結晶」だと考える理由は、そこに込められた理念が、単に一国の事情や一時代の要請を超えた普遍的な価値だからです。
戦後まもなく、私は図書館で世界の憲法の歴史について書かれた本を読む機会がありました。
そこで知ったのは、人々が自由、平等、民主主義を求めて長い闘いを続けてきた歴史でした。
アメリカ独立宣言やフランス人権宣言から続く人権思想の流れが、私たちの新憲法にも脈々と受け継がれていることに感銘を受けました。
特に印象的だったのは、個人の尊厳を最高価値とし、国民の権利を手厚く保障している点です。
思想・良心の自由や生存権といった基本的な権利に加え、当時としては画期的だった女性の権利保障もありました。
私の母は戦前、女性であるがゆえに多くの制約の中で生きていました。
教育の機会も限られ、結婚後は「家」制度の中で家長の意向に従うことを余儀なくされていました。
そんな母が、新憲法の下で「あなたは自分の意志で生きていけるのよ」と私に語った言葉は、今も私の心に深く刻まれています。
そして何より、憲法第9条に掲げられた平和主義は、戦争の惨禍を経験した私たち日本国民の切実な願いの象徴でした。
空襲の恐怖、疎開生活の辛さ、食糧難の苦しみ—そんな体験をした私たちにとって、「戦争の放棄」は単なる法文ではなく、魂の叫びでした。
憲法前文の「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」という言葉を読んだとき、
私は「これこそが人類共通の願いだ」と心から思いました。
結びに:過程を超えた憲法の価値
昨日、曾孫が学校で憲法について学んできたことを私に話してくれました。
「ひいおばあちゃんは憲法ができたとき、どう思ったの?」という素朴な問いに、私は少し考えてから答えました。
「それはね、まるで長い暗いトンネルを抜けて、明るい光を見たような気持ちだったよ」
どんな素晴らしいものでも、その誕生の過程は複雑で、様々な思惑や利害や力関係が絡み合うものです。
日本国憲法の制定過程も例外ではありません。
GHQの関与があったことは事実です。
しかし、それを単に「押し付け」と断じることで、そこに込められた理念や価値までも否定するのは、あまりにも短絡的ではないでしょうか。
私は、この憲法が「どのような過程でできたにせよ守らなければいけない」と考えています。
なぜなら、それは単なる法文書ではなく、戦争の惨禍を経験した人々が平和への切実な願いを込めて交わした「約束」だからです。
現在、憲法改正の議論があります。
特に平和憲法である第9条を変更しようとする動きには、戦争を体験した私としては不安を感じずにはいられません。
もちろん、時代の変化に応じて議論すること自体は大切です。
しかし、その際には、憲法の根底にある個人の尊厳や平和への願いという普遍的価値を忘れてはならないと思います。
93歳の私が、まだこうして声を上げることができるのも、平和と民主主義が保障された社会で生きてこられたからこそ。
この幸せを次の世代、その次の世代へと引き継いでいきたい—それが、戦争を経験した最後の世代に課せられた使命だと思っています。