結婚、出産、そして家電の時代~慌ただしくも輝いた日々

人生エッセイ

高度経済成長期に入った昭和30年代後半、私の人生にも大きな転機が訪れました。

家に生命保険のセールスに来た男性と母が仲良くなり、やがて私もその方と親しくなっていきました。

そして結婚を決意し、東京都内で新しい生活をスタートさせることになったのです。

新しい家庭と子どもたちの誕生

東京での新生活は期待と不安が入り混じるものでした。

結婚当初は質素な暮らしでしたが、二人で力を合わせて家庭を築いていきました。

そして次々と4人の子どもに恵まれ、家族の絆が深まっていきました。

子育ては想像以上に大変でしたが、それ以上に喜びも大きいものでした。

子どもたちの成長を見守る毎日は、忙しくも充実した日々でした。「明日はきっと良くなる」という希望を胸に、主婦として、母として懸命に生きていました。

高度経済成長と暮らしの変化

1950年代後半から1970年代にかけて、日本は目覚ましい経済成長を遂げていきました。

技術革新がこの成長の大きな原動力となり、自動車産業、電気機械産業、化学工業、造船業などが発展。

海外からの新しい技術を積極的に導入し、生産設備の近代化が進められていました。

私たち家庭も、その波に乗って少しずつ豊かになっていきました。

特に思い出深いのが、「三種の神器」と呼ばれた電化製品が我が家にやってきた時のことです。

洗濯機が来た時は、それまで手洗いに費やしていた時間から解放され、本当に嬉しかったものです。

白黒テレビが居間の一角に置かれると、家族みんなで番組を見るのが楽しみになりました。

冷蔵庫のおかげで食材の保存が容易になり、食生活も豊かになっていきました。

こうした家電製品は、私たち主婦の家事労働を大幅に軽減してくれました。

以前なら一日がかりだった洗濯も短時間で済むようになり、その分、子どもたちと過ごす時間や自分の時間を持てるようになったのです。

働く女性として

子どもたちが少し大きくなると、私も家計を支えるために仕事に出るようになりました。

当時は今のように女性の社会進出が進んでいなかったので、仕事と家庭の両立は並大抵のことではありませんでした。

夫も忙しく働いていましたが、私は子育てと家事、そして仕事をこなすために早朝から夜遅くまで動き回っていました。

それでも、働くことで社会とつながり、自分の居場所を見つけることができたのは、大きな喜びでした。

職場での人間関係や仕事の達成感は、何物にも代えがたい経験となりました。

1964年東京オリンピック

1964年の東京オリンピックは、日本の戦後復興を象徴する出来事でした。

家族揃ってテレビの前に座り、日本選手の活躍に一喜一憂したことを今でも鮮明に覚えています。

子どもたちと一緒に応援して喜び合った時間は、かけがえのない思い出です。

東京オリンピックに向けて、東海道新幹線や首都高速道路が開通するなど、インフラ整備が急速に進められました。

街の風景が日に日に変わっていくのを目の当たりにし、日本の発展を実感したものです。

1970年大阪万博

1970年の大阪万博も家族にとって大きなイベントでした。

「人類の進歩と調和」をテーマに開催された万博には、国内外から多くの人々が集まりました。

子どもたちを連れて実際に会場に足を運び、未来の技術や生活様式が披露される展示に、皆で目を輝かせたものです。

特に印象に残っているのは、動く歩道や電気自動車、テレビ電話など、当時としては夢のような技術の数々でした。

子供たちと一緒に、太陽の塔を見上げたあの時の感動は今でも鮮明に覚えています。

子どもたちは興奮して次から次へと展示を見て回り、私たち大人も未来への期待感に胸を膨らませました。

高度経済成長期は、慌ただしくも輝きに満ちた時代でした。

家族の絆を育みながら、社会の変化とともに成長していく、そんな日々を過ごしていました。

しかし、幸せな時間はいつまでも続くものではありません。

やがて訪れる試練の時代に、私たち家族も大きな変化を迎えることになるのです。

離婚、静岡でのシングルマザー生活~オイルショック、そしてバブルの記憶

別れの決断

高度成長からバブルの時代へと移行する中で、私たち夫婦の関係にも変化が訪れました。

仕事の忙しさや子育ての大変さなどで、次第にすれ違いが増えていったのです。

お互いに精一杯生きていましたが、価値観の違いも大きくなり、1970年代半ばに離婚を決意しました。

当時、離婚は今ほど一般的ではなく、特に4人の子どもを抱えての決断は、想像を絶する不安との闘いでした。

それでも前を向いて進むしかありませんでした。子どもたちを連れて、兄弟たちが住んでいた静岡へ向かったのです。

静岡での新生活

静岡は、戦争中に幼い兄弟たちが疎開先として住み着いていた土地でした。

富士山の見える静岡での新生活は、最初こそ大変でしたが、温かい家族の支えがあったからこそ乗り越えられたと思います。

シングルマザーとして4人の子どもを育てる日々は、文字通り寝る間も惜しんで働き続ける毎日でした。

第一次オイルショックの影響で日本経済が冷え込んでいた時期、家庭を支えるのは想像以上に大変なことでした。

時に体力的にも精神的にも限界を感じることもありましたが、「明日はきっと良くなる」と信じて前に進んできました。

オイルショックと物価高騰

1973年に始まった第一次オイルショックは、石油に大きく依存していた日本経済に深刻な影響を与えました。

物価が急騰し、トイレットペーパーや洗剤などの生活必需品が店頭から消えるパニックも起きました。

私の家計も直撃を受け、食費や光熱費の節約に必死でした。

子どもたちには十分な物を与えられないことが何よりも辛く、時に涙する夜もありました。

それでも子どもたちは文句ひとつ言わず、むしろ私を助けてくれようと、家の手伝いをしてくれたり、アルバイトに出てくれたりしました。

1979年には第二次オイルショックが発生し、再び原油価格が高騰しました。

日本は第一次オイルショックの経験から、省エネルギー技術の開発や石油依存度の低減を進めていましたが、この第二次オイルショックも経済に大きな影響を与えました。

子どもたちの成長

子どもたちは静岡で高校を卒業するまで育てることができました。

豊かな家庭ではなかったので、それぞれが自分の道を切り開いていきました。

働きながら夜間大学へ進学する子、就職して自立の道を選ぶ子など、それぞれが将来に向かって羽ばたいていきました。

子どもたちの自立心と積極性は、今でも私の誇りです。

苦労の中で育ったからこそ、逆境に強い人間に成長してくれたのだと思います。

彼らの姿を見るたびに、シングルマザーとしての苦労も報われる思いでした。

バブル景気と社会の変化

1980年代後半、日本経済は再び活況を呈し、いわゆるバブル景気を迎えました。

株価や地価が異常なほどに高騰し、企業や個人の消費は大きく拡大しました。

しかし、私たちの生活はバブルの恩恵をあまり受けることなく、質素ながらも安定した日々を送っていました。

むしろ、地価の高騰などで住宅購入の夢が遠のくなど、一般庶民にとっては生活しづらい面もあったのです。

そして1990年代に入るとバブルは崩壊し、日本経済は長期的な低迷期に入りました。

バブル崩壊後、株価や地価は大幅に下落し、多くの企業が経営難に陥りました。

「失われた10年」と呼ばれるこの時期は、社会全体に不安感が広がっていました。

子どもたちが独立し、私も仕事を続ける中で、この時代の変化を肌で感じていました。

それでも前を向いて生きていくことの大切さを、私は子どもたちから学んでいたのです。

子供たちの独立、熱海市での暮らしから名古屋へ~阪神・淡路大震災、東日本大震災、そして令和へ

熱海での新生活

子どもたちがそれぞれ独立し、私も年齢を重ねるにつれて、新しい住まいを考えるようになりました。

子供たちの援助で熱海市に、温泉付きのマンションを購入しました。

当時は、熱海の温泉街の観光客が激減している時でした。

温泉付きのワンルームマンションが安く売りに出されていたのを娘が見つけてきてくれました。

管理費は毎月数万円かかりますが、生活費をいれても年金で間に合う金額です。

マンションでのひとり暮らしを始めることにしたのです。

熱海での生活は、のんびりと穏やかな日々の連続です。

毎日温泉に入れるし、こんな日々がやってくるとは思いもよらずです。

これまでの忙しい日々を思えば、今は自分の時間を大切にできる贅沢な毎日でした。

子供たちはみな還暦を過ぎ、孫も今は30代半ばになり、曾孫もいる今、家族の成長を見守ることが最大の喜びとなっています。

名古屋への引っ越し

熱海での一人暮らしは、温泉に毎日は入れて快適でしたが、家族がいないさみしさがありました。

健康管理はしっかりしているので健康ですが、それなりに年を取っているので、周りが心配します。

名古屋に住む息子が、ちょうどいい団地の空があるから名古屋へ来ないかということになりました。

熱海は坂道が多く買い物も大変でした。

名古屋は、どこも平坦で坂道があまりありません。その団地は境もいいし、名古屋へ引っ越すことにしました。

孫やひ孫とも近くになり、名古屋での一人暮らしを始めました。

熱海のマンションは温泉付きで、ひところよりは観光も盛り返していたので、売りに出したら案外高く売れて、メデタシメデタシでした。

自然災害と日本の変化

1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災は、神戸市を中心とした地域に甚大な被害をもたらしました。

テレビに映し出される惨状に胸が痛み、遠く離れた熱海からもできる限りの支援をしようと、募金や物資の提供に参加しました。

この震災は、地震国である日本の脆弱性を改めて認識させ、防災対策の重要性を強く訴える出来事となりました。

私自身も非常食や懐中電灯など、防災グッズを備えるようになったのはこの頃からです。

2011年3月11日には、東日本大震災が発生し、東北地方の太平洋沿岸に巨大な津波が押し寄せ、想像を絶する被害をもたらしました。

福島第一原子力発電所での事故が起き、放射能汚染という新たな問題も引き起こしました。

この複合的な災害は、日本の社会、経済、そしてエネルギー政策に大きな影響を与え、復興への道のりは今も続いています。

災害の映像を見るたびに、戦争を経験した世代として、平和と安全の大切さを若い世代に伝えていきたいという思いが強くなりました。

平成から令和へ

2019年、平成の時代が終わり、令和の時代が始まりました。

私自身、昭和、平成、そして令和と、3つの元号を生きることになるとは思ってもみませんでした。

それぞれの時代には、それぞれの喜びや苦労がありました。

時代は変われど、人々の暮らしや幸せを願う気持ちは変わらないのだと感じています。

90歳からの新たな挑戦

そして今、90歳という年齢になった私が、インターネットでブログを書くという新たな挑戦を始めました。

孫に教わりながらパソコンを操作し、自分の思いや経験を言葉にすることは、新鮮な喜びです。

振り返れば、私の人生は日本の現代史そのものです。

満州事変から太平洋戦争、高度経済成長、バブル崩壊、そして自然災害など、多くの苦難や変化を経験してきました。

それでも、家族の絆や人々の温かさに支えられ、ここまで生きてこられたことに感謝しています。

年金暮らしでお金は少ないですが、節約をしながら、なんとか暮らすことができるようになりました。

この90年の人生を振り返って、いろんなことがあったと感慨深く思います。

今現在の時間を大切に生きていこうと思っております。

こんな感じでブログを開設して思い出したことをまた記事にしてみたいと思います。

読者の皆様が、私の経験から何かを感じ取り、ご自身の人生に活かしていただければ、これほど嬉しいことはありません。

温かい目で読んでいただけると嬉しいです。

人生エッセイ
この記事を書いた人
Akane

あかね90才。昭和初期生まれ。日本人女性。戦前戦後を生き抜く。高度成長で頑張り、子供たちは成長して、みな還暦過ぎ。最近パソコンやスマホを初めてもう楽しい。音声で文字が書けるので、パソコンやスマホといっぱいおしゃべりして、言いたいことバンバン書けます。長生きするのもワルクナイ!

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