こんにちは、皆さま。90歳になった あかね です。
日々の暮らしの中で、ふと昔の記憶が鮮やかに蘇ることがあります。
窓から差し込む穏やかな春の日差しを浴びながら、今日は私の90年の人生の中で、特に印象深い「食生活の変化」について綴ってみたいと思います。
終戦直後から現代に至るまで、私たちの食卓は本当に大きく変わりました。
その変化は、日本の復興と発展の歴史そのものと言えるかもしれません。
生きるための食事:配給制度下の食卓
終戦を迎えた時、私はまだ10代の少女でした。
灰色の空の下、焼け野原となった街並みの中で、私たち家族の食卓は本当に質素なものでした。
食べることに苦労する日々で、政府からの配給が頼りの毎日でした。
戦前戦後の時期の配給所に並ぶ長い列は、今でも目に焼き付いています。
早朝から寒さに震えながら立ち、やっと自分の番が来たときの安堵感。
配給される食料はわずかで、お米、小麦粉、塩、時には少量の砂糖…それだけでした。
配給カードを握りしめる母の手の温もりと、不安げな眼差しが今でも忘れられません。
「あかね、今日は少し多めにもらえたわよ」と嬉しそうに母が言った日は、まるでお祝い日のようでした。
配給されるものは、お米、麦、塩などが中心で、量も決して十分とは言えませんでした。
お米は貴重品で、麦や芋を混ぜて量を増やして食べていました。特に都市部では食料不足が深刻で、配給所に朝早くから並ぶのは日常の光景でした。
私たち家族の夕食は、薄いお粥に少しの塩、時には野草や雑草を刻んで混ぜただけのこともありました。
口に入れると、草の苦みが広がりますが、それでも「おいしい」と言って食べる弟たちの姿に、胸が締め付けられる思いでした。
おかずも、野菜の煮物や漬物といったものがほとんど。
お魚は貴重で、一匹を家族全員で分け合って、少しずつ口に運んだものです。
肉類はほとんど口にすることができませんでした。
おやつなんて贅沢に思い、サツマイモが手に入ると、それはもうご馳走でした。
ほくほくとした甘さが口いっぱいに広がり、幸せを感じた記憶があります。
なかでも忘れられないのは、少しでも多くの食料を手に入れるために、母が着物などを持って農村部へ物々交換に行ったことです。
「これが最後の着物よ」と涙ぐむ母の横顔を見て、食べ物の大切さを痛感しました。
あの頃は、ただお腹を満たすことが最優先で、味や栄養バランスなど考える余裕もありませんでした。
少しずつ明るい暮らし:復興期の食卓
サンフランシスコ平和条約が締結され、日本が徐々に復興していくにつれて、食卓にも少しずつ変化が見られるようになりました。
配給制度も徐々に緩和され、市場にも少しずつ食物が出回るようになったのです。
春になると、野山で摘んだ若草や山菜が食卓を彩るようになりました。
タンポポの葉や蕗の薹(ふきのとう)、土筆(つくし)などを摘んで来ては、それを家族で分け合いました。
初夏に採れたての筍(たけのこ)を調理したときの、あの独特の香りと食感は今でも忘れられません。
それでも、まだまだ食料は貴重で、家族みんなで分け合って食べるという習慣は変わりませんでした。
近所の人たちとの助け合いも大切で、お互いに物々交換をしたり、分け合ったりしながら、厳しい時代を乗り越えていきました。
「あかねちゃん、うちで採れたキュウリだけど、おすそ分けするわ」
「ありがとう、じゃあこちらは昨日作った梅干しを少し…」
そんな会話が日常的に交わされ、食べ物を通して人と人とのつながりが深まっていきました。
今では考えられないかもしれませんが、当時はそうして支え合うことが、生きていく知恵だったのです。
復興期の食卓は、まだ質素ではありましたが、終戦直後に比べると少し彩りが増え、時には「ハレの日」の食事として、小さなお祝いごとに特別な一品が加わることもありました。
子どもたちの誕生日には、工夫を凝らして少し甘いおやつを作ったり、学校の入学式には赤飯を炊いたり。
そんな小さな喜びが、私たちの心を豊かにしてくれました。
驚くような豊かさ:高度経済成長期の食卓
1955年頃から始まった高度経済成長期に入ると、日本の食卓は劇的に豊かになりました。
まとまったお店があつまった市場も各町内にできるようになり食料が手に入るようになりました。
60年代後半にはスーパーマーケットが次々とオープンし、様々な食材が手軽に手に入るようになったのです。
「冷蔵庫が欲しいわね」と母が言い始めたのもこの頃。
やがて我が家にも電気冷蔵庫が届いた日は、まるでお祭りのようでした。
昭和30年代後半、運んでもらったピカピカの白い冷蔵庫を家族全員で眺めた光景は、今でも鮮明に覚えています。
その頃から、牛肉や豚肉、鶏肉といったタンパク源が豊富になりました。
初めて食べた牛肉の柔らかさと甘みは、今でも舌の記憶に残っています。
子どもたちに「今日はステーキよ」と言って出した日の、あの目の輝きといったら!
野菜の種類も増え、季節を問わず様々な食材を楽しめるようになりました。
果物も、以前は特別な時にしか食べられなかったものが、日常的に食卓に並ぶようになりました。
リンゴ、ミカン、バナナ…子どもたちが喜ぶ果物が年中手に入るようになったのです。
そして何と言っても、冷蔵庫や炊飯器といった家電製品の普及は、私たちの生活を大きく変えました。
「三種の神器」と呼ばれた時代、テレビで見た新しい料理を試したり、料理雑誌に掲載されたレシピに挑戦したりすることが楽しみになりました。
食卓に並ぶ料理も、それまでの質素なものから、洋食や中華など、バラエティ豊かなものへと変化していきました。
子どもたちは、ハンバーグやスパゲッティといった新しい料理に目を輝かせていました。
「お母さん、今日のカレーライスおいしい!」
「学校給食で食べたシチューも作ってみてよ」
子どもたちからそんなリクエストを受けるようになり、私も料理の幅を広げていきました。
東京オリンピック(1964年)を契機に、日本人の食文化も国際化が進み、食卓はますます彩り豊かになっていきました。
食生活の変化と人々の意識
食生活が豊かになるにつれて、人々の食に対する意識も変わってきたように思います。
「お腹を満たす」ことから「食を楽しむ」ことへと、価値観が変化していったのではないでしょうか。
戦後の物資不足の時代には、とにかく空腹を満たすことが最優先でした。
しかし、経済成長とともに、食事の質や多様性、そして見た目の美しさなども大切にされるようになりました。
私が子育てをしていた頃は、栄養バランスを考えた食事作りが主流になってきました。
「一汁三菜」の考え方や、タンパク質、ビタミン、ミネラルなどの栄養素のバランスを考えることが、母親の務めとされていました。
そして、冷蔵庫の普及により、食材の保存方法も変わりました。
季節を問わず様々な食材が手に入るようになり、食卓は一年を通して彩り豊かになりました。
子どもたちの好みも多様化し、「好き嫌い」という概念が生まれ始めたのもこの頃からではないでしょうか。
一方で、現代では、「飽食の時代」と言われるように、食べ物があふれる中で、食の安全や健康への関心が高まっています。
以前は考えられなかったような、アレルギーや食生活病といった問題も出てきました。
私の孫世代になると、オーガニック食品やベジタリアン、グルテンフリーなど、食に対する選択肢も価値観も多様化しています。
インターネットで世界中の料理が検索でき、レシピを簡単に見つけることができる時代。
私のような90歳のおばあさんがブログを書く時代になったのです。
あかねの食卓、そして未来へ
私の90年の人生を振り返ると、食卓の風景は本当に大きく変わりました。
配給制度の下で、家族みんなで分け合ったお粥の味も、高度経済成長期に初めて食べたステーキの味も、今となっては懐かしい思い出です。
戦争を経験した私たちの世代は、食べ物を無駄にすることに強い抵抗感があります。
今でも「もったいない」という言葉が口から出てしまうのは、食べ物の大切さを身をもって知っているからかもしれません。
孫や曾孫たちを見ていると、彼らの食卓はさらに国際的で多様になっています。
世界中の料理を当たり前のように楽しみ、SNSで「映える」料理を共有する文化。
時代の変化を感じずにはいられません。
しかし、どんなに時代が変わっても、食事を通して家族が集まり、会話を楽しむ時間の大切さは変わらないと思います。
今では一人暮らしの身ですが、一番幸せを感じるのは、感謝しながら十分な食事ができることです。
今ではたまにやってくる孫たちが「おばあちゃんのお味噌汁が一番おいしい」と言ってくれることが、何よりの励みになっています。
90年を生きてきて思うのは、食は単に栄養を摂るだけではなく、人と人をつなぐ絆なのだということ。
配給時代の助け合いから、現代の家族の食卓まで、食を通して受け継がれるのは愛情なのかもしれません。
これからも、このブログを通して、私の人生の様々な出来事や思い出を皆さまと共有していきたいと思います。
次回のテーマも、どうぞお楽しみに。
温かい目で読んでいただけると嬉しいです。
あかね拝