15歳の私が見た新しい国の光・あたらしい憲法のはなし【第1回】

人生エッセイ

皆さま、こんにちは。あかねです。

80年前のあの大戦での経験から、日本の再建にむけて、新しい憲法ができた時の思いを語ります。

終戦の年、私の思いは、なぜ戦争があるのか、あの大空襲で、何の落ち度もない人々が、なにゆえに無残に消えていかなければならなかったのかという疑問です。

あんな戦争は二度とこりごりです。

そこから、日本の未来を考えて、少しうれしくなったのが、今の新し憲法でした。

空が赤く染まり、B29の爆音が遠ざかっていく日々を経て、私たちの国は大きく変わりました。

今日は、そんな激動の時代に15歳だった私が見た、新しい日本の「かたち」についてお話ししたいと思います。

焼け野原から希望を探して

長い戦争が終わり、次の年、私が15歳になった昭和21年(1946年)の日本は、まだ大変な混乱の中にありました。

大空襲で街は焼け野原になり、食べるものも、着るものも、何もかもが足りない時代です。

焼け跡に立った時の絶望感は、今でも鮮明に覚えています。

街全体が静まり返り、まるで時間が止まってしまったかのようでした。

かつて賑わっていた商店街は姿を消し、見渡す限りの焦土が広がっていました。

長女だった私は、幼い弟や妹たちのために、本当に働きづめでした。

配給だけではとても生活できず、時には危険を冒して闇市に足を運ぶこともありました。

闇市は物資が不足する中で人々が生きるために必死になる場所であり、同時に暴力や犯罪も横行する危険な場所でした。

家族皆で助け合い、少ない食べ物を分け合って、ただひたすらに日々を生き抜いていました。

近所の人たちとも、採れた野菜を分け合ったり、梅干しをおすそ分けしたりと、食べ物を通して助け合っていたものです。

バラックの家に住み、お風呂がない時は隣の家から五右衛門風呂を借りて、町の人々と協力し合って生きていました。

あの頃の記憶で最も辛いのは、栄養失調で亡くなった兄のことです。

十分な食料がなかったために、幼い兄弟たちのために食料を分け与え、自分はあまり食べていないようでした。

その悲しみを乗り越え、私たちは強く生きることを決意したのです。

新しい憲法との出会い

そんな厳しい生活の中で、新しい日本の「かたち」が示された出来事がありました。

それが、日本国憲法の公布です。昭和21年11月3日に公布されました。

私たち国民に、新しい憲法について知らせるための冊子が配られたのです。

中学1年生向けには『あたらしい憲法のはなし』、各家庭には憲法普及会というところが作った『新しい憲法 明るい生活』という冊子が届けられました。

国立国会図書館、青空文庫で無料公開されています。

あたらしい憲法のはなし・文部省

新しい憲法 明るい生活・憲法普及会編

配られた冊子を開いてみると、平易な言葉と挿絵で書かれていて、子ども心にも理解しやすいように工夫されていました。

私はむさぼるように読みました。

家族で冊子をめくりながら、「これからどうなるんだろうね」と話し合ったことを覚えています。

心に響いた憲法の言葉

冊子には、これから日本がどんな国になっていくのか、新しい国の歩み方、人々の暮らしの標準が書かれていました。

特に心に響いたのは、この憲法は「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにする」という決意から生まれ、

「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と書かれていたことです。

戦争の記憶がまだ生々しく残る中で、これらの言葉は私の心に強く刻まれました。

横浜での大空襲の体験。

静岡の疎開先から見た夜空を焦がす空襲の光景、遠くの街が炎に包まれ、空一面が赤く染まるあの地獄絵図。

そして、その後の惨状。 黒焦げになった人の塊が幾重にも重なっている光景。

あの恐ろしさを二度と繰り返さないという強い意志が、この新しい憲法には込められていたのです。

『新しい憲法 明るい生活』の発刊の言葉には、

「古い日本は影をひそめて、新しい日本が誕生した。生れかわつた日本には新しい国の歩み方と明るい幸福な生活の標準とがなくてはならない。これを定めたものが新憲法である」とありました。

この言葉を読んだ時、私は窓の外を見つめました。

まだ復興途上の街並みが広がっていましたが、そこには少しずつ活気が戻りつつありました。

バラックの家が立ち並んでいた街に、新しい建物が建ち始め、人々の表情にも明るさが戻ってきていたのです。

新しい時代の幕開け

戦争に明け暮れた古い時代が終わり、新しい、明るい日本が始まるのだ。

苦しかった戦争を体験し、大空襲も見て、食べるものにも困る毎日を送っていた私にとって、この言葉は、どれほどの希望となったことでしょう。

憲法普及会を中心に、国を挙げて「民主国家、平和な国にするんだ」という強い意欲が伝わってきました。

戦争放棄、基本的人権の尊重、国民主権…。

まだ15歳の私には、難しい言葉もたくさんありましたが、これから日本は、あの苦しい戦争とは無縁の、平和で、

そして私たち一人ひとりの暮らしが大切にされる国になるのだ、と感じて、本当に嬉しくなったことを覚えています。

新しい憲法の下で、社会は大きく変わりました。

言論の自由や基本的人権が保障されるようになり、特に女性の地位向上は、私たち女性にとって大きな喜びでした。

その変化は急激で、古い価値観と新しい価値観がぶつかり合う中で、私たちは悩み、苦しみながらも、新しい時代を切り開いていったのです。

未来への光

食べるものも十分ではなく、先の見えない不安もある中で、新しい憲法は、私たちに未来への光を見せてくれました。

これで、日本は平和で暮らしよい国になるのだ。

そう信じて、私たちは厳しい時代を懸命に生きていったのです。

当時、私たちはまだ貧しく、明日の食べ物にも困るような毎日でしたが、家族みんなで励まし合い、助け合って生きてきました。

時には希望を失いそうになることもありましたが、家族の温もりと絆が、私たちを支え、前へと進ませてくれました。

そして、新しい憲法が示す未来像が、私たちの歩みを照らしてくれていたのです。

平和を願って

あれから約80年が経ちました。当時15歳だった私は今93歳になりました。

振り返れば、日本は本当に大きく変わりました。

食糧難や貧困、そして社会の大きな変化など、様々な困難を乗り越えてきました。

その過程で、多くの悲しみや苦しみを経験しましたが、同時に、家族や友人との助け合いの精神、そして未来への希望を見出すことができました。

この憲法に込められた平和への願いが、これからもずっと日本に根付いていくことを願っています。

私が15歳の時に感じた希望の光が、未来の子どもたちにも届きますように。

そして、戦争の悲惨さを経験した世代として、平和の尊さを伝えていくことが、私の役目だと思っています。

現在の世界を見渡すと戦争がまだ続いています。

あの日、みんなと語り合った「新しい日本」は、確かに私たちの手で作られてきました。

これからも、皆さんと共に、平和な国を守り続けていきたいと思います。

このブログをはじめたのは、戦前、戦中、戦後を生き抜いた、世代だから語れることが、たくさんあるはずだと考えたからです。

最初に申し上げましたが、私の中には、まだ解決していない問題があります。終戦の時に思った疑問があります。

なぜ戦争があるのか、あの大空襲で、何の落ち度もない人々が、なにゆえに無残に消えていかなければならなかったのかという疑問です。

私が今こうしてブログを綴っていることが奇跡のようなものです。

あんな戦争は二度とこりごりです。

私はもう90年以上も生きましたが、 子供たちや孫、ひ孫たちのこれからを考えています。

政治や経済の状況も、なにか、きな臭いものを感じます。

ブログを綴りつつ、終戦の時に思った疑問を一つ一つ解決していきたいと思います。

読者の皆様が、私の経験から何かを感じ取り、ご自身の人生に活かしていただければ、これほど嬉しいことはありません。

人生エッセイ
この記事を書いた人
Akane

あかね93才。昭和初期生まれ。日本人女性。戦前戦後を生き抜く。高度成長で頑張り、子供たちは成長して、みな還暦過ぎ。最近パソコンやスマホを初めてもう楽しい。音声で文字が書けるので、パソコンやスマホといっぱいおしゃべりして、言いたいことバンバン書けます。息子や孫たちが「あかねの独り言制作実行委員会」なるものを結成してくれて、「90年の現代史を残すんだ!っと」ワイワイと手伝ってくれています。長生きするのもワルクナイ!

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