戦後80年93歳が語る、あの夏の日。玉音放送の意味を中学生向けに解説・玉音放送現代語訳

人生エッセイ

1945年8月15日、玉音放送(終戦の詔書)がありました。

当時、ワタクシは、かぞえで15歳だったと思います。

細かい記憶もごっちゃになっていますので、こうやって記憶を残そうと原稿を書いております。

当時、いろんなことがありすぎて、戦争が終わったという安堵感があったり、これからどうなるんだろうという不安が大きくて、

大人も子供も、どうしたらいいのかわからない状況だったと思います。

ワタクシの感覚では、あの日から、すぐに新しい憲法ができて、『新しい憲法の話』『新しい憲法 明るい生活』という冊子を手にしていたような感覚なんですね。

今回は、そんな記憶を整理したいと思います。

1945年8月15日の「終戦の詔書」(玉音放送)について解説してみます。

歴史認識については、いろいろ御座いますので、文面そのままの解釈を試みたいと思います。

1945年8月15日、あの日、ワタクシは、まだ15歳、今でいう中学生でした。

あの夏の暑さと、ラジオから流れてきた天皇陛下のお声と、その後の静寂と…その雰囲気は、今でも鮮明に蘇ってまいります。

玉音放送(終戦の詔書)現代語訳・中学生にもわかる言葉で

「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」という一節で知られる玉音放送(終戦の詔書)です。

1945年8月15日にラジオで放送されました。

この放送は、正式には「終戦の詔書(しゅうせんのしょうしょ)」と言います。

当時の天皇陛下が、国民の皆さんに直接、戦争を終わらせる決断をしたことを告げたものです。

ワタクシは、当時、意味が解りませんでした。

今、80年たって、当時のワタクシのような中学生でもわかるように翻訳してみたいと思います。

ここから、ワタクシの現代語訳です。

はじめに:大変な決断をお知らせします

私は、今の世界の状況と日本の状態を深く考えた結果、この大変な問題を解決するための特別な決断をしました。

そのことを、善良な国民の皆さんに伝えます。

私は日本政府に、アメリカ、イギリス、中国、ソ連という4つの国が出した「共同宣言(ポツダム宣言)」を受け入れると伝えさせました。

なぜ戦争を始めたのか、そしてなぜ終わらせるのか

そもそも、日本の国民が安心して平和に暮らせること、そして世界中の国々が一緒に豊かになることは、昔から天皇たちが大切にしてきた教えであり、私自身もいつも心の中で強く願ってきたことです。

以前、アメリカとイギリスに戦争を始めたのも、日本の独立と、アジアの国々が安定することを心から願ってのことでした。

他国の支配権を奪ったり、領土を侵略したりすることは、もともと私の本当の目的ではありません。

しかし、戦争が始まってからもう4年が経ちました。

軍の兵士たちが勇敢に戦い、役人たちが一生懸命働き、国民の皆さんが国のために努力してくれたにもかかわらず、戦争の状況は良くなりませんでした。

世界の情勢も、日本に有利ではありません。

それどころか、敵国は新しく、とても恐ろしい爆弾(原子爆弾)を使って、たくさんの罪のない人々を殺しました。

そのひどい被害は、どこまで広がるか全く分かりません。

このまま戦争を続ければ、日本人だけでなく、人類の文明そのものも滅んでしまうでしょう。

もしそんなことになったら、どうやって私の大切な国民を守り、亡くなった歴代の天皇たちに申し訳が立つでしょうか。

だからこそ、私は日本政府に「共同宣言」を受け入れさせることにしたのです。

辛い気持ちと、これからの日本への願い

日本と一緒に、アジアの国々を解放するために協力してくれた同盟国には、とても申し訳ない気持ちでいっぱいです。

戦場で命を落とした兵士や、国の仕事のために亡くなった人たち、そして戦争で命を失った一般の人々とそのご家族のことを思うと、私の心は引き裂かれるようです。

さらに、戦争で傷つき、財産や仕事を失ってしまった人々の、これからの生活のことを考えると、とても心が痛みます。

これから日本が経験する苦しみは、大変なものになるでしょう。

皆さんの本当の気持ちも、私はよく分かっています。

しかし、私は今の運命を受け入れ、耐え難く、また我慢できないような辛い気持ちを抑え、永遠に続く未来のために、平和な世の中を切り開こうと思います。

私はこうして、日本の形を守ることができ、忠実で善良な国民の皆さんの心を信じ、これからもずっと皆さんと共にいられることを嬉しく思います。

感情的になって争いを繰り返したり、仲間を裏切ったりして社会を混乱させたり、人として正しい道を外れて世界の国々からの信用を失ったりするようなことは、私が最も強く止めたいことです。

まさに国全体が一つの家族のように団結し、この国を子孫に引き継ぎ、日本が永遠に続くことを固く信じてください。

私たちのすべきことは重く、道のりは長いと自覚し、全ての力をこれからの国の建設に注ぎ、人として正しい道を外れず、強い意志を持って、必ず日本の本当の価値を世界に示し、進歩する世界の流れに遅れないようにする覚悟を決めなければなりません。

国民の皆さんは、私のこれらの気持ちをよく理解して行動してください

(以上が玉音放送(終戦の詔書)現代語訳・中学生向け)

戦争の中で育った少女時代

「国のため」が当たり前だった毎日

私が子供だった頃は、日本が大きな戦争の真っただ中でした。

今の皆さんには想像もつかないかもしれませんが、学校では「お国のために」「天皇陛下のために」ということが、まるで空気のように当然のこととして教えられていました。

私たちの生活は戦争を中心に回っていました。

朝起きて、宮城遥拝(きゅうじょうようはい)といって、皇居の方角に向かってお辞儀をすることから一日が始まります。

そして学校では、勉強だけでなく、軍事訓練がとても重要な位置を占めていました。

竹槍を持って「えいっ、えいっ」と突く練習をしたり、防空演習をしたりしていました。

女子挺身隊での工場勤務

女学校に入ると、私は「女子挺身隊(じょしていしんたい)」というものに参加することになりました。

これは、女子学生が軍事工場などで働くことで、戦争に貢献するという制度でした。

想像してみてください。

15歳の女の子が、大きな工場の中で飛行機の部品を作っているのです。

油にまみれて、手にはマメができて、それでも「お国のため」という気持ちで一生懸命働いていました。

毎日、毎日、「日本が勝つために」「兵隊さんたちが戦地で頑張っているのだから」という思いでいっぱいでした。

疲れても、つらくても、それが当然だと思っていたのです。

空襲の恐怖と日常

太平洋戦争の後半では、空襲も、本当に日常茶飯事でした。

1945年5月の横浜大空襲は悲惨でした。

B29という大きな爆撃機…まるで空に浮かぶ巨大な鯨のような姿で、ぶぅーんという低い音を響かせながら飛んでくるのです。

空襲警報が鳴って、あの音が聞こえると、私たちは急いで防空壕に逃げ込みました。

じめじめした土の匂い、みんなで身を寄せ合う温もり、そして頭上を通り過ぎていく爆撃機の音…心臓がドキドキして、息が詰まりそうでした。

空襲があった夜は、市街地の方角の空が真っ赤に燃え上がりました。

オレンジ色の炎が空を染めて、まるで地獄の業火のような光景でした。

その赤い空を見ながら、「また誰かのお家が燃えてしまった」「お友達は無事だろうか」と、胸が締め付けられるような思いでした。

あの日、1945年8月15日

重大放送の予告

そして、運命の1945年8月15日がやってきました。

その日も、私は午前中から防空壕を掘るお手伝いをしていました。

スコップを持って、汗をかきながら土を掘っていると、「国民にとって重大な放送がある」という知らせが回ってきたのです。

「重大な放送って何だろう?」 「また戦地で大勝利したのかしら?」 「それとも…」

みんなで顔を見合わせながら、不安と期待が入り混じった気持ちで、ラジオの前に集まりました。

玉音放送、そのとき私が感じたこと

正午になると、ラジオから「君が代」が流れて、そして天皇陛下の玉音が響いてきました。

みな初めて聞くお声です。

でも、正直に申し上げますと、その時の私たちには、そのお言葉の意味がよく分からなかったのです。

とても丁寧で、格調高いお言葉のようでしたが、聞き取りにくく、難しい表現ばかりでよくわからなかったのです。

まるで古い漢文を読み上げているような…そんな印象でした。

アナウンサーさんの解説があったような気がしますが、それでわかったのか、「戦争が終わったようだ」と大人たちが言うのです。

大人たち涙、そして私の気持ち

まわりの大人たちは、放送を聞きながらポロポロと涙を流している人もいました。

大きな手で目をぬぐいながら、「終わった…終わったんだ…」とつぶやいていました。

でも、私にはよく分からなかったのです。

戦争しか知らない15歳の少女にとって、戦争が終わるということの意味が、まだ理解できませんでした。

むしろ、「これで空襲がなくなるのね」「もう防空壕に隠れなくていいのね」という、単純な安堵感の方が大きかったのです。

電気が灯った喜び

そして、しばらくして起こった小さな変化が、私にとっては何よりも嬉しい出来事でした。

それまでは、空襲対策で電気を暗くしたり、窓に黒い紙を貼ったりして、いつも薄暗い部屋で過ごしていました。

宿題をするのも、ご飯を食べるのも、ろうそくのような暗い明かりの下でした。

それが、戦争が終わったと知った夜、お部屋にパッと明るい電気が灯ったのです!

まるで太陽が部屋の中に入ってきたような、そんな明るさでした。

その光の中で、みんなの顔がはっきりと見えて、本当に心から嬉しかったのを、今でも鮮やかに覚えています。

今になって分かる、あの放送の意味・文面通りに解説すると

歴史認識については、いろいろ御座いますので、文面そのままの解釈です。

天皇陛下の苦渋の決断

あの時、私は単純に「戦争が終わった」としか理解できませんでしたが、歳を重ねるにつれて、あの詔書(しょうしょ)に込められた深い意味が分かるようになりました。

天皇陛下は、あの放送で「世界の情勢と日本の現状」を深く深く考え抜いた末に、「ポツダム宣言」を受け入れる決断をしたとお話しになりました。

戦争を始めたのは「日本の自立とアジアの安定を願ってのこと」だったけれど、戦局は思うように進まず、

敵国が「新たに残虐な爆弾」…これは原子爆弾のことですね…これを使い、さらにソビエト連邦が日本に宣戦布告してきました。

民族の滅亡を防ぐために

そして、陛下が最も心を痛められたのは、このまま戦争を続ければ「我が民族の滅亡を招くだけでなく、さらには人類の文明をも破滅させる」という、とてつもなく大きな危機感でした。

まるで、嵐に向かう船の船長が、乗組員全員の命を守るために、苦しい決断を下すように…陛下は日本国民すべてを「子」のように想って、その命を守るために決断したということです。

「堪え難くまた忍び難い思いをこらえ、永遠に続く未来のために平和な世を切り開こう」

この言葉の重み、その時の私には分からなかったけれど、今、ひしひしと感じることができます。

国民への深い思い

そして、国民に対しては、感情的にならず、規律を守り、みんなで力を合わせて国の再建に尽力すること、世界に遅れを取らないよう努力することを求められました。

あの日から80年、私が思うこと

不安と安堵の入り混じった気持ち

あの日の玉音放送は、私たち国民にとって、本当に突然やってきた「終戦」の知らせでした。

これからどうなるのだろうという不安と、戦争が終わったことへの安堵が、心の中でぐるぐると渦巻いていました。

周りの大人たちの中には、「アメリカ兵が殺しに来るんじゃないか」「日本はどうなってしまうのだろう」と怯えている人もいました。

でも、実際にはそんなことはありませんでした。

新たなスタートライン

あの放送があったからこそ、日本は新たなスタートを切ることができたのだと、長い人生を振り返って、心の底から思います。

天皇中心の国家体制から、教育を受けていた私達は、玉音放送(終戦の詔書)で天皇自らのお声を聴いたことに深い意味があったと思います。

普通にニュースや新聞なんかで「戦争は終わりました。負けました。」なんて知らされたら、暴動が起きていたかもしれません。

私はその後、戦後復興の中で結婚し、4人の子供を育て、高度経済成長も経験し、時にはシングルマザーとして苦労もしましたが、平和な日本で家族と共に歩んでくることができました。

語り継ぐ責任

今、この年になって思うのは、この戦争の記憶を、二度と繰り返さないために語り継ぐことが、私たち戦争を体験した世代の大切な役目だということです。

戦争は、人間の心を、家族を、街を、すべてを破壊してしまいます。

でも平和は、みんなで大切に育てていくものです。

玉音放送については、天皇の戦争責任、なぜもっと早くに決断しなかったのかなど、議論がいろいろとあるところです。

今回は、その事実をたんたんと積み重ねて考え、戦争は二度としてはいけないというワタクシのメッセージとしたいと思います。

私の小さな体験談が、今を生きる皆さんの心に、少しでも平和の大切さを伝えることができれば…そう願って、こうしてお話しさせていただいています。


最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。

あの夏の日の記憶が、皆さんの心に平和への想いを灯してくれることを、心から願っています。

最後の一句

「玉音に 涙と光 平和咲く」

人生エッセイ
この記事を書いた人
akane

90年の人生を振り返ってブログとYouTubeで独り言朗読音声を残しています。娘、息子や孫、ひ孫にパソコン、スマホを習って挑戦!「あかねの独り言制作実行委員会」なるものを結成してくれて90年の現代史を残すんだ!とワイワイ手伝ってくれています。長生きするのもワルクナイ!

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