はじめに:華やかな舞台の裏で、私たちの日常は軋んでいる
永田町では、自民党総裁選という名の壮大な「椅子取りゲーム」が幕を閉じました。
メディアは連日この政治ショーを報じ、まるでオリンピックでも始まるかのような熱狂ぶりでした。
そして高市早苗氏が自民党総裁の座を射止めたのです。
けれども、ワタクシたち一般庶民の生活はどうでしょう。
舞台の照明が明るく輝けば輝くほど、客席にいる私たちの姿は暗闇に沈んでいくようです。
スーパーで豆腐一丁を手に取り、「あら、また値上がりしてる」と眉をひそめる。
電気の請求書を見て、深いため息が漏れる。
これが、ワタクシたちの現実なのです。
この華やかな政治の舞台と、私たちの生活実感との間には、深い深い谷が横たわっています。
まるで、豪華客船のファーストクラスとエコノミークラスが、同じ船に乗っていながら別世界にいるように。
この断絶こそが、来るべき新政権への漠然とした、しかし心の奥底から湧き上がる不安の源なのです。
正直に申し上げましょう。
今回の総裁選は、健全な民主主義というよりも、裏金問題や経済失政という本当に向き合うべき問題から国民の目を逸らすための「手品」のように見えました。
マジシャンが右手で派手に布を振りながら、左手でコインを隠すように。
自民党は「露出さえ増やせば支持率は回復する」と信じているかのようです。
これは、ワタクシたち有権者を、まるで単純な生き物のように扱っているように感じられて、正直、腹立たしさすら覚えます。
94歳のワタクシが今日お話ししたいのは、この「高市新政権」誕生の可能性を前にして抱く不安の正体です。
それは単なる好き嫌いの話ではありません。
一人の政治家の資質だけの問題でもない。
自民党という組織が抱える構造的な病、そして日本の政治システム全体が機能不全に陥っている現実を映し出す鏡なのです。
病を診断する:反省という言葉を忘れた権力
民主主義において、説明責任という言葉ほど重いものはありません。
政権与党が自らの過去の過ちにどう向き合うか。
これは、その国の未来を占う最も確かな指標です。
しかし、今回の総裁選で目の当たりにしたのは、自民党がいかにこの責任から逃れようとしているかという、目を覆いたくなるような現実でした。
この反省の欠如は、単なる怠慢ではありません。
それは、企業献金と内部の権力派閥に依存する党の構造がもたらす、いわば「構造的な欠陥」なのです。
国民の苦悩に対する鈍感さは、バグではなく、仕様なのだと言わざるを得ません。
裏金問題:まるで雨上がりのように「なかったこと」にされる汚職
総裁選の討論会を見ていて、ワタクシは不思議でなりませんでした。
党の信頼を根底から揺るがした裏金問題について、まるで雨上がりの水たまりのように、誰もが避けて通るのです。
一部の宗教団体との癒着問題も同じです。
これらの問題で自民党は、政党としての信用という、最も大切な財産を失ったはずです。
それなのに、総括はなされないまま。
それどころか、裏金に関与した議員が「禊(みそぎ)は済んだ」と言わんばかりに、要職に起用される可能性すら報じられています。
ワタクシの時代には、不祥事を起こした者は、たとえどんなに優秀でも、しばらくは表舞台から身を引くものでした。
それが「けじめ」というものだったのです。
けれども今は、まるで汚れた服を脱がずに、その上から新しい服を着るように、問題を覆い隠すだけ。
これでは、国民が示した政治不信への明確な「ノー」を、真っ向から無視しているのと同じではありませんか。
経済失政:27年間の沈黙が物語る無責任
もっと深刻なのは、経済政策への反省の欠如です。「失われた30年」と呼ばれる経済停滞期のうち、なんと27年間も自民党が政権を担ってきました。
90%です。圧倒的な数字です。
この間、ワタクシたちの賃金は上がらず、日本の国際競争力はOECD加盟国の中で「一番ボトムのとこまで落ちてる」と評される惨状です。
これは統計という冷たい数字ではなく、私たち一人ひとりの生活に直結する、血の通った現実なのです。
けれども、総裁選の論戦で、この長期にわたる経済失政の原因分析や、アベノミクス路線の是非を問う声は、ほとんど聞こえてきませんでした。
まるで、国民の貧困化は「最初から存在しなかった」かのように。
この沈黙は、雄弁に語ります。
自らの腐敗と失政に真摯に向き合うことなく、権力の座をたらい回しにする。
この姿勢が、国民に深い幻滅を与えているのです。
そして高市氏の台頭は、反省なき政党が行き着く論理的帰結なのです。
経済的失敗を清算できない以上、党に残された道は、イデオロギー動員と巧妙な政治戦術という、全く別の戦略に活路を見出すことだけなのですから。
高市氏という現象:巧妙に編まれた「安倍戦略」の再来
高市早苗氏をめぐる不安は、単に彼女のイデオロギー的立場から生じているのではありません。
むしろ、彼女が展開しようとしている、計算され尽くした政治戦略の巧妙さにこそ、より深刻な警鐘を読み取るべきなのです。
保守本流からの静かな離脱:色で言えば、淡い桜色から濃い紅色へ
1955年、保守合同で誕生した自民党は、もともと二つの色を持っていました。
一つは吉田茂元首相に源流を持つ「経済重視・軽武装」の自由党の流れ、いわば淡い桜色の「保守本流」。
もう一つは、鳩山一郎氏や岸信介氏に連なる「憲法改正・タカ派」の日本民主党の流れ、いわば濃い紅色の「傍流」です。
歴史的に自民党は、常に淡い桜色を基調としてきました。
けれども、森、小泉、そして安倍政権を経て、党の色は完全に濃い紅色へと変わりました。
高市氏の登場は、この色の変化が一時的な流行ではなく、党のDNAレベルでの変質であることを決定づけています。
この流れは、ワタクシたち戦争経験者にとって、具体的な恐怖を呼び起こします。
「防衛力の強化」という言葉は、別の響きを持って聞こえるのです。
ワタクシたち昭和一桁世代は覚えています。
「国を守る」という美しい言葉のもと、家庭の鍋釜まで供出させられました。
最後にはお寺の鐘まで、兵器の材料として持っていかれたのです。
あの音色豊かな鐘が、人を殺す弾丸に変えられるなんて。
今でも思い出すと、胸が締め付けられます。
軍事費の増大は、福祉や教育、医療といった、国民生活に不可欠な予算を犠牲にすることで成り立ちます。
これは歴史が証明する、痛ましい教訓なのです。
パイの大きさは決まっているのですから、一方を増やせば、もう一方は必ず減る。
算数の問題なのです。
「勝てる自民党」の復活:まるで往年の名優が再び舞台に立つように
高市氏が真に警戒すべき政治家である理由を考えています。
高市氏は第二次安倍政権の成功戦略を、まるで往年の名舞台を再現するかのように、巧みになぞろうとしているのではないでしょうか。
その脚本はこうです。
「岩盤保守」層という固定客を確保しつつ、同時にリベラル・中道層という新規客も取り込むことで、劇場を満員にする。
具体的には、
- 国民民主党が掲げるガソリン税減税を、自身のレパートリーに加える
- 立憲民主党が求めてきた給付付き税額控除にも、前向きな姿勢を見せる
これは、かつて安倍元首相が野党を分断し、国政選挙で「連戦連勝」を収めた演出と酷似しています。
高市氏の登場によって、日本保守党や参政党に流れた保守層の票が自民党に戻る可能性もねらっているのではないでしょうか。
そうなれば、「自民一強時代の終わり」という希望の光が消え、再び選挙に強い自民党が復活してしまう。
自民党が説明責任から自らを隔離する、完璧な政治的支配システムを完成させようとしていると思います。
野党の悲劇:好機を前にして凍りつく姿
今、衆参両院で与党が過半数を割り込んでいます。
自民党が弱体化している今、本来であれば野党にとっては千載一遇のチャンスのはずです。
まるで、長年閉ざされていた重い扉が、ようやく開きかけているように。
けれども、国民の目に映るのは、絶好機を前にしながら、その扉を押し開けることができずにいる野党の姿です。
その根本原因は、単なる戦術のミスではありません。深刻な「信頼性の危機」なのです。
消費税増税という原罪:消えない過去の傷跡
この危機の発端は、多くの現野党の源流である旧民主党政権が、公約になかった消費税増税を断行したという、歴史的な「約束破り」にあります。
ワタクシはあの時のことを、今でも鮮明に覚えています。
期待が大きかっただけに、裏切られた時のショックは計り知れませんでした。
この「負の遺産」は、今なお彼らの信頼性を蝕む原罪となっています。
現在、いくら減税を叫んでも、多くの有権者の耳には、その言葉が空虚に響いてしまうのです。
連立協議という矛盾:約束と行動の乖離
この信頼性の危機をさらに深刻化させているのが、先の選挙で「自民党政治を終わらせる」と訴えて議席を得たはずの野党が、一転して自民党との連立協議に動くという矛盾した姿勢です。
日本共産党は具体的な数字を挙げて批判します。
日本維新の会が予算に賛成し、国民民主党が企業団体献金禁止の緩和で自民党を助けたと。
「これでは『本当に自民党政治を終わらせる立場に立つ野党』とは見なされない」という言葉は、厳しいけれども的確です。
こうした動きは、有権者への裏切りと映ります。
野党が原則よりも日和見主義で動いている。
そんな印象を強めているのです。
まるで、風見鶏が風向き次第でクルクル回るように。
消えた消費税減税:最後の信頼も失われて
この信頼性の死のスパイラルを象徴するのが、選挙期間中にほぼ全ての野党が掲げた「消費税減税・廃止」という公約が、政局の中心に躍り出るべきこの局面で、政治の表舞台から完全に姿を消してしまったことです。
国民生活に最も直結する課題で、野党が一致結束できない。
この姿は、彼らが信頼を回復する能力を完全に失っていることの、最終証明に他なりません。
まるで、最後の切り札を自ら捨ててしまったように。
戦略的に立ち回る自民党と、歴史的制約と内部分裂によって身動きが取れない野党。
まるで、二つの道のどちらを選んでも、同じ場所にたどり着くような、そんな絶望感です。
私たちは舐められているのか?そして、できることは何か
裏金問題や経済失政を反省しない与党の傲慢さ。
それに対峙すべき野党の機能不全。
自民党は、マディアへの露出さえしていれば自然に支持率が上がると信じています。
メディアジャックという手法で国民を操作しようとしている。
これは、まさに「国民は舐められている」という感覚を裏付けるものであり、ワタクシたち市民社会への侮辱に他なりません。
けれども、ここで諦めてはいけないのです。
94年の人生を生きてきたワタクシが、若い皆さんに伝えたいことがあります。
私たちにできることは、政治という「茶番劇」の観客であることをやめることです。
メディアが作り出すイメージや、政治家が語る耳触りの良い言葉に惑わされてはなりません。
私たちは彼らの「言葉」ではなく、その「行動」と「歴史」をこそ、冷静に検証する必要があるのです。
「その政党がどのような歴史を歩んできたのか」を慎重に見極めること。
これこそが、賢明な有権者に求められる姿勢です。
自民党は、高市氏を使い慣れた脚本の主役に据え、その壮大なスペクタクルだけで観客の関心を惹きつけられると信じています。
まるで、豪華な舞台装置と華やかな衣装さえあれば、中身が空っぽでも観客は満足すると思っているかのように。
今、問われているのは、私たち国民が受動的な観客に留まるのか、それとも、この無責任な権力の悲喜劇に、ついに緞帳を下ろす批評家になるのか、ということです。
ワタクシは94歳です。人生の最終章に入っています。
けれども、若い皆さんは、これからです。
この国の未来は、皆さんの手の中にあるのです。
どうか、目を見開いて、耳を澄まして、心を研ぎ澄ませて。
そして、自分の頭で考え、自分の心で感じ、自分の意志で選んでください。
それが、民主主義という名の、この儚くも美しいシステムを守る、唯一の方法なのですから。
最後の一句
政(まつりごと)
舞い散る公約
落ち葉かな
華やかな政治ショーが終わっても、私たち国民の生活は続きます。
冷たい冬空のように厳しい現実の中で。
けれども、空は必ず明けるのです。
その希望を、ワタクシは信じています。