名古屋の息子の家で、ワタクシはいつものようにお茶を一杯いれて、
パソコンで「しんぶん赤旗」や「チームあかね」が集めてくれた世界中のニュースリストを眺めていました。
桜はもう散って、若葉が風にそっと揺れていた、そんな穏やかな朝のことです。
2026年4月22日「しんぶん赤旗」の一面に「武器輸出を全面解禁、閣議決定平和国家投げ捨て」とありました。
お茶を持つ手が、少し止まりました。
ワタクシの胸の奥で、何かがギシリと音を立てたのです。
それは懐かしい恐怖とも、深い悲しみとも、少し違う感覚でした。
あえて言葉にするなら、魂の底からの、警報音、とでも言いましょうか。
女学校の頃、日本は武器を「作る」国でした
先の戦争中、女学校に上がる頃にはもう、世の中は戦争一色で工場に動員されて、
学校の授業よりも「お国のために働く」ことが優先された時代です。
あの頃の日本は、武器を「輸出する」国ではありませんでした。
自分たちが使うための武器を、自分たちで作っていた。
ワタクシも横須賀海軍工廠で、1日中立ちっぱなしで兵器の機械部品の組立や運搬、検査をしておりました。
戦争末期には、横浜大空襲で横須賀も空襲にあいました。
そして、その末路が、あの焼け野原だったのです。
横浜大空襲については、以前、お話いたしました。

横浜の街が、真っ赤に燃え、空は真っ黒になった日のことを、ワタクシは今でも覚えています。
恐怖と絶望の色でした。
終戦の玉音放送を聞いたとき、そして、新しい憲法を読んだとき、ワタクシは「もう二度と、あんな時代に戻ってはいけない」と、胸の底に刻み込んだのです。
あの時、戦争を体験した日本人、皆がそう思ったのです。
戦後日本が誇りにしてきた「一本の線」
戦争が終わって、日本は少しずつ、少しずつ、立て直していきました。
その中で「武器を売らない国」という選択は、ただの外交ルールではなかったと、ワタクシは思っています。
それは日本人が血と涙で学んだ、魂の誓いのようなものでした。
時系列で整理すると、こんな歩みです。
まず、1967年、佐藤栄作首相が「武器輸出三原則」を表明しました。
共産圏、国連が禁じた国、紛争当事国、この3つには売らない、という約束です。
ちょうどベトナム戦争が泥沼化していた時代で、「日本はその戦争には加担しない」という意思表示でもありました。
次に1976年、三木武夫首相がさらに厳しくしました。
「原則として、どこにも売らない」という方向に舵を切ったのです。
これは「クリーン政治」を掲げた三木さんらしい、筋の通った判断でした。
そして1981年には、衆参両院がそろって「国会決議」でこれを確認しました。
一つの政権の判断ではなく、国民全体の約束として刻まれたのです。
この流れを図で思い描いてみてください。
「完全禁止」という頂点に向かってゆっくり登っていく、一本の折れ線グラフ。
それが戦後日本の誇りでした。
憲法9条を持つ日本の政治家は、保守でも、そう考えるに至ったのです。
「武器輸出三原則」については「チームあかね」が詳しく分析して記事をまとめています。
日本の安全保障政策における歴史的転換点:高市政権による武器輸出全面解禁と平和国家理念の変容(チームあかね編)

その線が、静かに消されていった
ところが2014年、安倍晋三政権が「防衛装備移転三原則」という新しい枠組みを、閣議決定で作りました。
「原則禁止」の看板を降ろして、「条件付きで認める」に変わったのです。
ただその時点では、輸出できるのは、5類型、「救難・輸送・警戒・監視・掃海」という5つの目的に限るとされていました。
人を傷つける「正面装備」の輸出には、まだ高い壁が残っていた。
それが2026年4月21日、高市早苗内閣の閣議決定で、その5つの枠組みそのものが完全に撤廃されたのです。
殺傷能力を持つ武器の完成品を、原則として輸出できるようになった。
登っていた折れ線グラフが、ここで崖から真っ逆さまに落ちた。
ワタクシにはそう見えてなりません。
防衛産業の「熱波」お金の論理が動いていた
なぜこうなったのか。
2025年11月のものですが、『週刊東洋経済』の特集「防衛産業の熱波」を見ると、産業界の事情がよく分かります。

国内だけでは、武器は売れない。量産できないから、単価が高くなる。
利益が出ないから、コマツや三井E&S造船のような大手企業が「防衛産業から撤退する」という事態になっていた。
業界団体は長年、「輸出という出口を開けてほしい」と政府に訴え続けてきたのです。
具体的な話をしましょう。
三菱重工業が売り込もうとしているのは、次期戦闘機(GCAP)、長射程ミサイル、新型護衛艦です。
川崎重工業は輸送機や哨戒機、潜水艦を中東やアジアへ。
三菱電機はフィリピンへの防空レーダー輸出を足がかりに、東南アジア全体を狙っています。
抜け穴は、実は前からあった
「全面解禁」というのは、実はある日突然起きたことではありません。
少しずつ、少しずつ、壁に穴が開けられていたのです。
先ほどの2025年11月号の『週刊東洋経済』の特集「防衛産業の熱波」の中で
国内防衛産業は「持続不可能な国内市場」から「収益性の高い海外市場」への拡大を悲願としてきたと紹介されています。
「5類型」という壁に穴が開けられていたのです。
2023年には、米国製のパトリオットミサイル(日本でライセンス生産したもの)を米国へ輸出することを決定しました。
2024年3月には、英国・イタリアと共同開発する次期戦闘機を「この案件に限り」第三国へ輸出できると認めました。
この「例外」が積み重なって、いつの間にか「例外が普通」になっていく。
お菓子の袋に小さな穴が開いて、気がついたら中身が全部こぼれていた、そんな感じです。
原則としての「5類型」の縛りは存在しているものの、政府が「共同開発・生産」という名目を適用したり、
運用指針を段階的に改定して新たな例外、ライセンス生産品や特定の戦闘機などを追加したりすることで、
実質的に5類型の枠から外れる兵器の輸出ルートが開かれているのが現状でした。
しかし、防衛産業にとっては、「もう、そんな面倒な取り決めは無しにしてくれ」ということで、
国内防衛産業の「収益性の高い海外市場」への拡大という悲願に、高市政権は応え、
平和国家を投げ捨てる全面的な武器輸出に道を開く閣議決定をしたのです。
ワタクシがもうひとつ気になること、誰が決めたのか
ワタクシには、法律の難しいことは分かりません。
でも94年生きてきて、一つだけはっきり分かることがあります。
大切なことは、みんなで話し合って決めなければいけない。
今回の決定は「閣議決定」です。内閣だけが判断して決めた。
1981年に衆参両院の国会決議で「国民全体の約束」として刻んだことを、
国会での十分な議論も法改正もなく、内閣の判断だけで覆してしまったのです。
これは、ルールの中身よりも、決め方の問題として、ワタクシはとても気になります。
宮沢さんの言葉を、ワタクシは忘れられない
宮沢喜一元首相がかつていいました。
「日本は武器を売って稼ぐほど、落ちぶれていない」
この誇りは、どこへ行ってしまったのでしょう。
戦後80年かけて日本が築いてきた「平和のブランド」は、武器を売らないことで生まれていました。
紛争地帯でも日本人は比較的安全だと言われてきたのは、「日本は武器を持ち込まない国」というイメージがあったからです。
もし日本製の武器が、どこかの紛争で民間人を傷つけることになったら、
そのときワタクシたちは、何と言えるのでしょう。
それでも、ワタクシは信じたいのです
横須賀海軍工廠で、ワタクシたちが作っていたのは人殺しの兵器です。
当時は「お国のため」と信じ込まされて働きました。
そんな時代の反省に立って、今の日本はあるのです。
94年生きてきたワタクシには、どうしても外せない一本の線があるのです。
「人を殺すための道具を、商売にしてはいけない」という線です。
一度解禁された武器輸出を、また元に戻すことは、ほとんど不可能だとも言われています。
扉を開けることは簡単でも、閉めることは極めて難しい。
それでもワタクシは、この国の若い人たちを信じたいと思っています。
孫やひ孫たちが大人になったとき、「あの時、おばあちゃんたちはちゃんと声を上げていた」と言える社会であってほしいのです。
94歳のワタクシにできることは、こうして独り言を残すことくらいしかありません。
でも、独り言だって、誰かの耳に届くこともある。
それを信じて、今日もキーボードを叩いています。
最後の一句
焼け跡を 知らぬ指先 銃磨く
焼け跡を知らない世代の政治家たちが、その手の軽さで武器輸出解禁のハンコを押していく、94年を生きたワタクシには、その指先が怖くてならないのです。
