今の日本で、何かがおかしい
「軍事的抑止力」の掛け声とともに、防衛費を増やせ、反撃能力を持て、もっと強くなれ、そんな国家予算が通り、
国家情報会議設置法が成立し、米国とイスラエルによる国際法を無視した対イラン先制攻撃から3カ月がたちました。
「強くなることこそ、平和を守る唯一の道だ」という話が、まるで当たり前のことのように語られるようになりました。
でもね、94年間この国で生きてきたワタクシには、どうしても胸の奥に引っかかるものがあるのです。
「軍事的抑止力」について「チームあかね」と話し合って、詳しい記事をまとめてもらいました。
「軍事的抑止力が戦争リスクを逆説的に高める構造と論拠:国際関係論・ゲーム理論・認知心理学による多角分析(チームあかね編)」です。

これに関連して、思い出したのが次の記事です。
2026年の2月に仙台で開かれたシンポジウムで、志位和夫さんが「戦争国家づくりが加速している」と強く警鐘を鳴らされました。
2026年2月25日付の「しんぶん赤旗」に掲載された革新懇仙台シンポ・志位議長の講演で『いかにして「戦争国家づくり」を許さない国民多数派をつくるか』という記事です。
しんぶん赤旗のサイトでも全文公開されています。

「チームあかね」の記事は、長くて専門用語も多く分かりにくいですが、いろいろな学説を網羅的にまとめております。
志位氏の講演内容とを合わせて、ワタクシなりにお話させて頂きます。
安全保障の専門家たちの知見を丁寧に紐解いていくと、「備えれば備えるほど、逆に戦争のリスクが高まる」という、ぞっとするような逆説が見えてくるのです。
今日はこの話を、難しい言葉はなるべく使わずに、ワタクシなりにお伝えしたいと思います。
抑止力については、以前の動画やブログでも戦前の日本をなぞって違った見方でまとめています。
「抑止」の罠:なぜ日本は再び過ちを繰り返すのか? 戦前の教訓と現政権への警鐘

「抑止力」って、いったい何なのか
まず「抑止」というものの仕組みから整理させてください。
抑止とは、簡単に言えば「やったら痛い目に遭うぞ」と相手に思わせることで、攻撃を思いとどまらせる作戦です。
軍事の世界では、国家はみんな「損得を冷静に計算できる合理的な存在」だという前提でこの理論が成り立っています。
考え方はこうです。
攻撃して手に入るものよりも、攻撃して被る痛手の方が大きければ、相手は攻撃してこない、という算数ですね。
そのための手段は大きく二つあります。
一つは「守って得をさせない」やり方。
ミサイル防衛網を張り巡らせて攻撃を防ぎ、「攻撃しても無駄だ」と思わせる。
これを専門用語で「拒否的抑止」と言います。
もう一つは「やったら倍返し」の作戦。
「攻撃してきたら、それをはるかに上回る報復をするぞ」と示すことで、相手を怖がらせる。
これが「懲罰的抑止」です。
似たようなものですが、理屈の上では、150年も前から国際関係論などで議論されています。
でも現実の世界は、きれいな算数通りには動かない。そこに、恐ろしい落とし穴があるのです。
「備えるほど危うくなる」という不思議なパラドックス
なぜ「備え」が逆効果になるのか。ここが今日の話の一番大切なところです。
ロバート・ジャービスというアメリカの国際政治学者が、「安全保障のジレンマ」という大切な概念を教えてくれています。
例えば、ワタクシが家の周りに高い塀を建てたとします。「自分の身を守るためだ」と思っている。
でも隣人から見たら、「何かを企んでいるのではないか、こちらを攻めようとしているのではないか」と映るかもしれません。
すると隣人も塀を建て始める。ワタクシはもっと高く建てる。
隣人もさらに高く建てる、気がつけば、お互いの塀がどんどん高くなって、かえって険悪な雰囲気になってしまう。
これが軍拡競争の本質です。
自国が「防御のため」と信じてやっていることが、相手には「攻撃の準備」に見える。
このすれ違いが、恐怖と不信の螺旋を生み出すのです。
さらに困ったことに、国際社会には、もめごとを仲裁してくれる「世界政府」のようなものが存在しません。
「国連」なるものがありますが、まだまだ世界の紛争を止める力がないですね。
国と国の間は、言ってみれば、ルールを強制する警察官のいない無法地帯のようなものです。
そうなると各国は「自分の身は自分で守るしかない」と焦り、軍備を積み上げ続けます。
でもその積み上げがまた相手を不安にさせ、全員が損をする状況に転がり落ちていく。
ゲーム理論で言う「囚人のジレンマ」そのものです。
さらに人間の心理が、この悪循環に拍車をかけます。
心理学に「基本的帰属の錯誤」という言葉があります。
自分のやることは「仕方ない理由がある」と思い、相手のやることは「あいつの性格が悪いからだ」と思い込む。
この歪んだ見方が、お互いを「鏡の中の悪者」として見せてしまうのです。
そして、ついには「やられる前にやってしまえ」という先制攻撃の衝動が生まれてくる。
恐ろしいことでしょう。
現代のサイバー戦争が、さらに「抑止」を無力にしている
話はまだ続きます。今の時代、戦争の姿そのものが変わってしまいました。
かつてのミサイルや爆弾は、どこから飛んできたかがわかりました。
撃ち返す相手が見えた。でもコンピューターを使ったサイバー攻撃は、どこの誰がやったのか、なかなかわかりません。
元アメリカ国防副長官のウィリアム・リンさんは言っています。
「ミサイルは送り主がわかってやってくるが、サイバー攻撃の多くはそうではない。ほぼリアルタイムで攻撃者を特定できなければ、抑止の仕組みは破綻する」と。
攻撃してきた相手がわからなければ、「やったら倍返し」の報復ができない。
抑止力は音を立てて崩れ落ちます。
そこで現代の安全保障は「やられても立ち直れる強さ、回復力」、つまり「レジリエンス」という考え方に軸足を移しています。
でも問題は、サイバー空間での抑止が効かないと感じるからこそ、「では物理的な武力でいっそう脅威を根絶しよう」という、より危険な発想が生まれやすくなるということです。
「抑止」の論理は、こうして次第に「先制攻撃」の論理へとすり替わっていく怖さがある。
「備え」の対症療法より、「対話」という予防薬を
では、この恐ろしい罠から抜け出す道はあるのでしょうか。
あります。外交の専門家・津守滋さんなど多くの学者さんで提唱されているのが「協力的安全保障」という考え方です。
軍備で相手を恐れさせるのではなく、対話と信頼によって「そもそも脅威を生み出さない」という根本治療です。
わかりやすく言えば、軍事的抑止は痛み止めで症状を抑える「対症療法」です。
でも飲みすぎれば副作用で体を壊す。一方の協力的安全保障は、病気の原因を取り除く「予防薬」です。
医者に言わせれば、予防に勝る治療なし、ですよね。
志位さんが語る「対話の習慣」——凍りついた湖に架ける信頼の橋
では、どうすればこの恐ろしいパラドックスから抜け出せるのでしょうか。
志位さんが仙台で熱く語られた「対話の習慣を広げる」という提案は、ワタクシの胸に、春の陽だまりのような暖かさを届けてくれました。
「対話」を語ると、すぐに「そんなの甘いお花畑だ」と笑う人がいます。
「お花畑」ワタクシに言わせれば、軍拡こそ『火の車に乗って火に飛び込む』ようなものです。
お花畑と笑う人に聞きたい。花が咲いたことで始まった戦争は、歴史上一度もない。
銃を積んで始まった戦争なら、何度でも。
備えれば備えるほど、相手も備える。気がついたら、お互いが火達磨になっている。それがジレンマというものです。
武力による抑止がお互いの首にロープをかけ合う関係だとするなら、「協力的安全保障」はお互いの手をしっかりと握り合う関係です。
東南アジアのASEAN諸国をご覧なさい。
かつてあの地域は「アジアの火薬庫」と呼ばれ、悲惨な戦争が泥沼化していた場所でした。
しかし彼らは、何百回、何千回と首脳たちが集まり、ただひたすらに話し合い続けることを選びました。
「お互いに脅威とならない」この一見当たり前の約束を、辛抱強く積み重ね、多国間のルールとして根付かせたのです。
日本と中国の間にも、すでに「互いに脅威とならない」という首脳間の合意があるのですよ。
「日中韓サミット」という、隣同士がひざを交えて話せる大切な場も用意されています。
この仕掛けを、なぜ錆びつかせておくのでしょう。
どんなに意地悪で冷たい隣人であっても、毎日顔を合わせ、世間話を交わす「お茶飲みの習慣」さえあれば、
突然包丁を持ち出して襲いかかるようなことにはなりません。
外交努力とは、相手の恐怖心を解きほぐし、こちらを信頼してもらうための「安心供与」を重ねることに尽きるのです。
それでも、今の高市政権は、なぜ「軍事的抑止力」 にこだわり、軍拡の道へすすむのか、
なぜ、9条を変えたがるのか、なぜ、戦後否定された「緊急事態条項」を憲法に入れたがるのか、
それは、5月24日のNHK日曜討論で、立憲民主党の小西氏や共産党の山添氏、護憲の立場でいいことを発言されていました。
そして、れいわ新選組の大石あきこ氏、一番鋭く、ズバッと言ってくれました。
「それね、戦争ビジネスで皆さんの、ここの与党にいる方々の、その票をくれる人たちは儲かるんでしょうけれども、犠牲になるのは、若い人達。自衛隊員ですよ。これ、体張って、止めなきゃいけない事態です。」
軍需産業の株価が上がり儲かる人たちがいるからです。
憲法9条は「理想論」ではなく、最もリアルな戦略だ
「抑止力こそが平和の鍵だ」という考え方は、理論的にも実践的にも、もはや成り立たないことがわかってきました。
憲法9条を活かした外交とは、夢見がちな理想論ではありません。
相手に「攻撃する動機そのもの」を失わせる「安心供与」という、極めて現実的な安全保障の戦略なのです。
際限のない軍拡という「抑止の罠」に足をとられ、対症療法を飲み続けて国を疲弊させてはなりません。
今こそ政府に向かって、密室での軍備拡張ではなく、「透明性の確保」と「対話の枠組みづくり」を最優先するよう、声を上げるべきではないでしょうか。
94年間生きてきたワタクシが、戦争の匂いを体の奥で知っているからこそ、言わずにはいられません。
ワタクシは、戦時中、横浜海軍工廠で戦争兵器の生産に動員されておりました。
1945年5月29日の横浜大空襲を体験いたしました。
多くの友人や知り合いをなくしました。
その時の体験談は、「黒焦げの塊と空飛ぶ鉄板・94歳が語る、戦争への警鐘【1945年5月29日横浜大空襲】」でご紹介しております。是非、ご覧ください。

戦争は二度とこりごりです。
戦争を許さない国民の、圧倒的多数派をつくること。それこそが、真の意味で日本を守る道だと、ワタクシは信じています。
最後の一句
花畑 笑う君こそ 火の番人
お花畑と笑う人が、実は戦争に火をつけているという逆説を575に収めてみました。
おそまつさまでした。

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