同じ青空、同じ横浜に生まれた二人の少女
みなさま、こんにちは。あかねでございます。本日も、少し真面目なお話をさせてくださいね。
2026年の8月、俳優であり、作家であり、そしてジャーナリストとしても世界を股にかけて活躍された岸惠子さんが、93歳でその波乱に満ちた生涯を閉じられたというニュースを耳にいたしました。
同じ昭和の初めに横浜の地で生まれ、あの戦争の時代を女学生として過ごしたワタクシにとって、彼女の死は本当に他人事とは思えず、胸が締め付けられるような深い悲しみと、ある種のはかり知れない共鳴を覚えざるを得ませんでした。
彼女が遺された自伝や新聞の記事をひもといていくうちに、ワタクシは言葉を失うほどの衝撃を受けました。
それは、横浜大空襲、昭和20年5月29日午前9時という、あの運命の瞬間、すぐ近くの横浜市街地で、ワタクシたち二人の少女が、全く同じ地獄の業火の中に身を置き、それぞれ信じられないような奇跡によって命を救われていたという事実でございます。
同じ瞬間に、同じ横浜駅やその周辺の燃え盛る街の中で、必死に逃げ惑っていた少女がすぐそばにいた。
そのことに、ワタクシは言葉に尽くせない尊い縁を感じるのです。
横浜大空襲の体験談の記事はこちらにも詳しくまとめました。
黒焦げの塊と空飛ぶ鉄板・94歳が語る、戦争への警鐘【1945年5月29日横浜大空襲】

生と死を分けた、あの日の「防空壕の限界」
あの1945年5月29日の朝は、信じられないほどの快晴でございました。
まるで神様が、これから始まる生き地獄をすべて白日の下に晒そうと悪戯を仕掛けたかのような、憎いほどに青く澄み渡った空でございました。
当時、満年齢で13歳だったワタクシは、前夜から横須賀の軍需工場での夜間勤務を終え、保土ケ谷区にあった高台の自宅へと向かう帰路の途中でございました。
その途上、午前6時26分という極めて早い時間に警戒警報が響き渡り、やがて午前9時、空を埋め尽くす銀色のB29の大編隊が、耳を聾するほどの金属的な重低音を響かせながら襲いかかってまいりました。
避難しようと、途中の駅近くの防空壕へと急ぎましたが、そこはすでに逃げ込んできた人々で足の踏み場もないほどに溢れかえっており、中に入る隙間など到底ございませんでした。
途方に暮れていると、見知らぬご年配の男性から、広い通りを抜け、山下公園の方向へ逃げるのが安全だと声をかけられたのです。
その言葉に導かれるように、ワタクシは降り注ぐ油脂焼夷弾の「サー、サー」という雨のような不気味な音の中を、這うようにして広い道へと逃げ延びました。
あたりはもの凄い熱風の嵐となり、まるで火をそのまま吸い込むかのような苦しさの中で、無数に引きちぎられたトタン板や建物の燃えカスが、凶器となって空を舞い狂っていました。
火の粉と暴風を避けるため、必死の思いで見つけたコンクリート壁の陰に身を潜めたその瞬間、空から大きな鉄板が降ってきてコンクリートの壁に激突いたしました。
その鉄板が、壁に斜めにもたれかかるようにして、ちょうど大人が一人潜り込めるだけの小さな「三角形の隙間」を作り出してくれたのです。
ワタクシはその暗闇の空間に身を縮めて滑り込み、奇跡的に火の粉と窒息するような熱風を避けることができました。
爆音がやみ、気がつくとあたりは静まり返っていました。
火の手を避けながら保土ケ谷の自宅へとたどり着く道すがら、ワタクシが目にしたのは、人間の尊厳を根こそぎ奪い去るような凄惨な光景でした。
そこには、言葉にすることすら憚られるような、誰が誰かも判別できない無数の黒焦げになった人の塊が、幾重にも重なり合って道路や防空壕の入り口に散乱していたのです。
まだ生まれて間もない小さな赤ちゃんが、そのまま炭のようになって横たわっている姿を見たとき、ワタクシは自分が生きていることの理不尽さと、あまりの恐ろしさにただ涙を流すことしかできませんでした。
一方、当時12歳だった岸惠子さんもまた、同じ時間に同じ横浜の焦土の中で逃げ惑っていました。
『岸惠子自伝──卵を割らなければ、オムレツは食べられない』で語られております。

彼女は濡らした布団を頭からかぶり、爆音と爆風が吹き荒れる火柱の中を必死に走っていました。
途中で大人たちに手荒く防空壕へと放り込まれたものの、彼女の心の中に「ここにいては絶対に死んでしまう。ここにはいたくない」という野生的な、そして強烈な直感がひらめいたのだそうです。
彼女はその直感に従い、大人の制止を振り切って壕の外へ飛び出しました。
その直後、彼女が飛び出した防空壕のなかに残った人々は、恐ろしい火災の熱風と酸素の欠乏によって、全員が全滅してしまいました。
このあまりにも不条理で悲惨な現実を目の当たりにした12歳の岸さんは、「大人の言うことはもう絶対に聴かない。今日で子どもをやめよう」と、その小さな胸に深く固く誓ったといいます。
当時の防空壕は、突貫工事で掘られたただの横穴にすぎず、大規模な絨毯爆撃の前には、人々を生き埋めにし、窒息死させる「落とし穴」としての役割しか果たさなかったのが、残酷な歴史の真実でございました。
言いつけを守って壕の奥にとどまった真面目な人々が全滅し、壕に入れなかったワタクシと、壕から飛び出した岸惠子さんが生き残ったという、この生と死を分けた不条理。
それは、戦争というものがどれほど理不尽で、個人の意志や善悪など微塵も顧みない非情なものであるかを、ワタクシたちにまざまざと教えてくれるのです。
工場に消えた青春・横浜の女学生たちの群像劇
ワタクシたちの世代にとって、女学校という場所は、青春の学び舎ではなく、お国のために兵器の製造を手伝う「軍需工場への動員先」でございました。
後になって読んだ横浜大空襲の記録や岸さんの自伝などでは、ワタクシと同じような体験を多くの方が記録しております。
岸恵子さんが通っていた神奈川県立横浜第一高等女学校、現在の平沼高校の女学生たちも、日々の授業をすべて奪われ、毎日、朝早くから夜遅くまで工場での過酷な作業に従事していました。
そして、あの空襲当日、県立第一高女の鉄筋コンクリートの校舎は、事前に指定されていた「最終救護所」としての機能を果たすため、一瞬にして凄惨な野戦病院へと変貌を遂げました。
空襲から逃れてきた負傷者が、竹で作られた即席の担架で次々と運ばれ、すべての教室や廊下、階段の手すりの陰に至るまで、うめき声をあげる人々で埋め尽くされました。
電気も水道も途絶えた暗闇のなか、満足な医薬品も麻酔もない状態で、軍医や見習士官たちはロウソクの細い光を頼りに、泣き叫びもがき苦しむ少年の脚を切断する手術を麻酔なしで行っていたのです。
一階の地歴室は、息を引き取った人々が次々と運び込まれる霊安室となり、その亡骸は校庭の隅で荼毘に付されていきました。
これが、かつて麗しい乙女たちが学んでいた美しい女学校の、あの日の一面でございました。
同じ横浜の空の下、他校の少女たちもまた、それぞれに過酷な運命を背負わされ、健気にもお互いを支え合いながら生きていました。
横浜山手女学院、現在のフェリス女学院の女学生たちが遺した「勤労動員日誌」には、空襲警報が連日のように鳴り響き、何度も防空壕やスタンドの下へ避難させられる恐怖のなかで綴られた、胸が締め付けられるような記録が残されています。
それでも彼女たちは、限られた配給の中で特別に分け与えられた「タイラ貝」やお茶、あるいはご褒美としてもらった一冊のノートに、心から大喜びし、お互いの無事を気遣いながら、小さな楽しみに命を繋いでいました。
横浜紅蘭女学校、現在の横浜雙葉の女学生たちは、いつも賑やかで華やかだった伊勢佐木町のデパート「野沢屋」の4階へと動員されていました。
そこは、飛行機や軍艦に使用される真空管を製造するための、東芝の急造工場として接収されていたのです。
ピンセットを握って精密な作業に没頭していた彼女たちは、空襲のあと、窓から外を見渡した瞬間に息を呑みました[。
あれほど美しく、愛した伊勢佐木町の街並みが、一瞬にして見渡す限りの焦土と化し、煙の中に消え去っていたのです。
さらに、私立神奈川高等女学校の少女たちは、神奈川区鶴屋町にあった佐倉鋼鉄へと派遣され、まだ持ったこともない重い「鋲打ちドリル」を小さな手で握り締め、特攻機の補助翼の製造に携わっていました。
少しの緩みも、少しのひび割れも許されないという極度の緊張感のなかで、いつか神風が吹いて日本が勝つと固く信じながら、額に汗してドリルを回し続けた日々。
これらの少女たちの消え去った青春、奪われた学びの時間は、決して美しいお話などではなく、国家という巨大な力によって一人ひとりの尊い命と暮らしが、都合よく動員され、消費されていった戦争という巨大な人災の爪痕にほかなりません。
戦後をどう生きたか「ノー」と言う強さと新憲法への希望
横浜大空襲の後、ワタクシは母に連れられて、縁故を頼りに静岡の山深い村へと疎開いたしました。
静岡でも、漆黒の闇の中、遠くの街が空襲に遭い、夜空が真っ赤に染まる光景を、山の上から言葉もなく見つめていた記憶がございます。
あの燃える空の赤は、かつて横浜で見た、黒焦げの赤ちゃんの記憶と重なり、ワタクシの心を激しく揺さぶりました。
終戦から半年が経ち、ようやく戻った横浜の街は、まだ見渡す限りの焼け野原でございましたが、その荒涼とした焦土の中で、15歳のワタクシたちの前にひとつの大きな光が差し込んできました。
それが、新しく生まれた「新しい日本国憲法」、特に、二度と戦争による惨禍を繰り返さないと世界に向かって宣言した、憲法第9条への希望でございました。
「あたらしい憲法のはなし」という、国から配られた小さな冊子を読んだとき、ワタクシは心の底から救われる思いがいたしました。
何の落ち度もない人々が、理由もわからず黒焦げの塊となって消えていかなくてはならなかった、あの理不尽な世界は、
この新しい約束によってようやく終わりを迎えるのだと、これからは一人ひとりの個人の暮らしや命が、何よりも大切にされる国に生まれ変わるのだと、胸を弾ませ、未来に強い光を感じたのでございます。
同じように、地獄を生き延びた岸惠子さんもまた、戦後の社会において、あの日に刻んだ「大人の言いなりにはならない」という強い決意を、自らの生き方をもって証明し続けました。
女優としての地位を確立していく中で、彼女は「自分が本当に出たくないと思う作品には、自分の意志で、ノーと言える強さが欲しい」と願い、周囲の反対を押し切って女性だけによる独立したプロダクションを設立されました。
人気が絶頂期にある中でフランス人監督との国際結婚を選び、単身パリへと渡った行動力も、あの日、防空壕から自らの直感で飛び出したあの日の決断力と、一本の細い糸で繋がっているように思えてなりません。
さらに彼女は、単なる華やかな大女優にとどまることなく、ジャーナリストや国連人口基金の親善大使として、ガザや、ベトナム、そして世界中の過酷な紛争地へと自ら足を運び、現地の人々と同じ目線でその惨状を世界に発信し続けました。
赤旗のインタビューにもたびたび登場されて、彼女は死の直前まで、日本国憲法の改正に反対し、核兵器の廃絶を強く訴え、
イスラエルによるパレスチナ・ガザ地区での大量虐殺を激しく批判し続ける、文字通りの「行動するリアリスト」として、その生涯を平和のために捧げられたのです。
今、再び忍び寄る「戦争の準備」への懸念と怒り
ジャーナリストとしての岸惠子さんが、生涯をかけて世界に問いかけ続けた大きな疑問がございました。
それは、「なぜ世界から戦争がなくならないのか。なぜこれほど多くの悲劇が、いつまでも繰り返されるのか」という、
それは、ワタクシを含めて、あの時代を生き延びた世代の共通する疑問で、極めて根源的な問いでした。
その答えは、彼女が紛争地を歩き、ワタクシたちが社会の現実を見つめる中で、恐ろしいほどの冷酷さをもって浮かび上がってまいりました。
それは、戦争というものが、それぞれの国が掲げる正義や防衛のためだけでなく、その裏側にある「金儲け」、
すなわち巨大な「戦争ビジネス」という経済の論理によって駆動されているという、あまりにもおぞましい真実でございます。
国と国との間に緊張が高まり、戦火が拡大するたびに、世界の巨大な軍事産業の株価は確実に上昇し、兵器の注文が殺到して、底知れない利益が転がり込みます。
そして、ウクライナや世界各地での凄惨な戦争で、人々が肉片となって焼き殺され、飢えに苦しんでいるその裏で、
アメリカの国防関係者や兵器メーカーは「雇用が生まれ、経済が成長するのだから、この安全保障は双方にとって好循環なのだ」と、平然と胸を張っているのが、現代の戦争の正体なのです。
かつて、ワタクシたちの頭上から凶器となって降り注ぎ、すべてを焼き尽くしたあの恐ろしい鉄板や炎が、
今や「防衛と経済の好循環」という、美しく耳障りの良い言葉によって化粧され、
あろうことか「国の成長産業」として誇らしげに語られている現状に、ワタクシは激しい怒りと、深い悲しみを抑えることができません。
今の高市政権が進める政治の姿は、アメリカのトランプ政権が進める世界戦略や「アジア・シフト」に盲従する形で、この戦争ビジネスの冷酷な歯車の中に、日本を自ら深く組み込もうとしているようにしか見えないのです。
防衛費をGDP比の2パーセントに、3パーセントも視野にいれて引き上げるという大号令のもと、防衛予算が増大し、
三菱重工業や川崎重工業、三菱電機といった防衛関連企業の株価が「防衛産業の熱波」によって押し上げられる一方で、
ワタクシたち一般国民の生活は、信じられないほどの冷酷さをもって切り詰められ、切り捨てられています。
約1兆円もの軍事予算を補正予算で一瞬にして積み上げるその一方で、お年寄りたちが老後の命を繋ぐための介護保険の自己負担率を2倍に引き上げ、わずか100億円の社会保障費を絞り出そうとしている、この「グロテスクな対比」。
物価高に喘ぐ日々の家計への直接的な支援は、ほんのわずか、小手先のごまかしで済まされているのが、今の政治の姿でございます。
政府はいつも、「相手が攻めてこないように、抑止力を高めるために大軍拡が必要なのだ」と説明いたします。
しかし、抑止力の名の下に「敵基地攻撃能力」を持ち、高価なミサイルを買い揃えることは、本当に平和をもたらすのでしょうか。
こちらが武器を持てば、周辺の国々も「日本が攻撃してくるかもしれない」と警戒し、さらに強力な兵器を開発し、配備しようといたします。
それに対抗して、我が国もさらに軍備を増強する。
この終わりのない軍拡競争は、かえって地域の緊張を極限まで高め、些細な誤解や偶発的な事故によって、
一瞬にしてすべてが炎に包まれる戦争のリスクを自ら高める「安全保障のジレンマ」を引き起こすだけなのです。
この大軍拡の進む姿は、まるで「家族がお腹を空かせて飢えているのに、その食費を限界まで削って、隣の家と殺し合いをするための高価な鉄砲を買い揃え、家の中に武器が増えるたびに、今度はいつ隣の家と撃ち合いが始まるかと、家族全員が毎晩震えながら眠るようなもの」ではございませんでしょうか。
家の中にミサイルが増えても、私たちの心は荒み、暮らしは破壊され、恐怖に怯える日常が戻ってくるだけでございます。
国家が「戦争の準備」にすべてを傾けていくとき、かつて昭和の初めに、お国のためにとすべてを統制され、
最後にはすべてを灰にされたあの軍国主義前夜の不気味な空気感が、今、恐ろしいほどの酷似をもって、ワタクシたちの日常に忍び寄ってきていることを、ワタクシは強く懸念するのです。


94歳から未来の世代に手渡す、最後のバトン
岸惠子さんが、その生涯を通じて人生の指針として世に問い続け、ワタクシたちの胸に重く遺していかれた警鐘がございます。
「歴史をひもとかない人によい明日はない」。
この言葉は、今まさに過去の過ちを忘れ、再び「戦争の準備」へと突き進もうとしている現代の日本に対する、最期にして最大の警告にほかなりません。
歴史を振り返れば、「戦争の準備」が平和をもたらしたことなど、一度としてございませんでした。
ただ一つの真実は、戦備を整えれば整えるほど、対話の窓は閉ざされ、最終的には一般の、何の落ち度もない市民の命と暮らしが、悲惨極まる戦火によって最初に焼き尽くされるということでございます。
ワタクシは今年、95歳になります。
戦争の本当の地獄、あの日の「黒焦げの赤ちゃんの塊」の熱さと痛みを語ることができる人間は、もう、この国にほとんど残されていません。
だからこそ、生かされたワタクシの最後で最大の使命として、未来を担う若い世代の皆さまに、この命のバトンを手渡したいのです。
きっと、岸恵子さんも同じお考えだったと思います
国が選ぶべき道は、軍事費を増やし、ミサイルを買い揃える「戦争の準備」ではございません。
お互いに知恵を絞り、対話を諦めず、粘り強く敵を作らないための信頼を築き上げる「平和の準備」にこそ、すべてのお金と情熱を注ぐべきなのです。
あの日、コンクリート壁に激突した大きな鉄板が、ワタクシの頭上に作ってくれた、あの小さな三角形の隙間。
あそこは、ワタクシをただ生かしてくれた場所ではなく、未来の若者たちに「二度とこのような地獄を味合わせてはならない」と、命がけで語り継ぐために与えられた、神様からの約束の場所だったと信じています。
あの日から生かされたひとりとして、心を込めて、この一句を捧げます。
歴史ひもとき 明日へと繋ぐ 命の灯
岸惠子さんが生涯の指針とされた「歴史をひもとく」という言葉を受け継ぎ、ワタクシの生かされた命を、未来を照らす温かい「灯(ともしび)」に例えて五・七・五に整えました。
ワタクシの心からの願いを込めて、この原稿を皆さまの未来へとお送りいたします。


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